心の闇と気安く呼ぶけれど
びっくり聖書解釈
事件の報道にしばしば現れる常套句、「心の闇」。まるで心に暗い部分を抱えた人間は皆犯罪者として裁かれるかのような言い方に、反発を覚えます。一時、「ネクラ」という言葉が流行り、「ネアカ」が善で「ネクラ」が悪のように言われました。いじめられる側にも問題がある、としていじめを助長した責任を問われることはありませんでしたが、こうした空気は、マスコミがつくり出す面もあるはずです。なぜなら、マスコミは、スポンサーがついている限り、明るいほうをよしとする前提に立って、情報を誘導するからです。
自分とは何かを真摯に追い求める人は、ますます影に追いやられます。調子に乗って羽目を外す人間は微笑ましい眼差しで報道され、内省的な人間は何を考えているか分からないという怪しさとともに報道されます。
聖書が救う人間は、どちらかと言えば、その暗い立場の人です。イスラエル民族は、明るい民族とは言えないでしょう。キリスト教にしても、磔にされて殺された人を神と崇めているわけで、ニーチェのように弱虫が信じると言われても仕方のないところがあります。
その聖書は、心の闇など存在しないかのように言い放ちます。闇と私たちが思っているものも、専ら光である神と比べれば、もはや闇と呼ぶこともできないものである、と。神の光の中につねにあることを喜べ、と……。
闇もあなたに比べれば闇とは言えない。
夜も昼も共に光を放ち
闇も、光も、変わるところがない。
(詩篇139:12/新共同訳-日本聖書協会)
た
か
ぱ
ん
ワ
イ
ド