たかぱん

 ヨシュアでさえねたんだ

びっくり聖書解釈

 モーセはそのとき、新米のリーダーでした。主から、民を養うとの約束を聞いても、六十万の民の食糧がどうやって賄えるのか、信じられませんでした。しかし主なる神は、「主の手が短いというのか」と言った。やがてうずらが飛んできたりするのですが、その前にモーセは、まず主の言葉を人々に告げています。モーセの語る言葉を受け入れた人は、次々と預言するようになりました。預言とは、神の言葉に預かることで、要するに人からの言葉ではなく、神からの言葉を受けて、それを他の人々に言い広める役目がありました。
 まだ新米の部類の長老がいて、新人であるにもかかわらず、神の霊が及ぶと、神はこう言われる……というふうに、預言を始めました。
 そのとき、以前からモーセの従者であった、ヌンの子ヨシュアが、たまらず口を挟みます。預言をやめさせてください、と。モーセは、それがねたみからのものだと理解し、むしろ主を信じる民すべてが、預言する者として主のことばを口にするようになればよい、と願っていることを明言します。
 ヨシュアは、後にモーセの後継者として、イスラエル民族のリーダーの役割を果たします。そのヨシュアでさえ、預言する人々を見て面白くなかったのです。――だからヨシュアは大したことない? そうではありません。大したことないのは、私たち一人一人です。
 聖書は、登場人物の失敗をくどいくらいに描きます。どの人をとっても、欠点ばかりです。でも、人間はそんなものです。間違わない人間はいません。罪のない人間は、いません。あのヨシュアでさえ、ここで的を外してしまっています。
 過ちを犯したときも、モーセやヨシュアのエピソードを思い出すことにより、その失敗が次に活かされる、と希望をもつことができます。ねたみの心があることも、素直に認めることによって、改善が図れます。ヨシュアがそうであったように。



若いころからモーセの従者であったヌンの子ヨシュアは、「わが主モーセよ、やめさせてください」と言った。モーセは彼に言った。「あなたはわたしのためを思ってねたむ心を起こしているのか。わたしは、主が霊を授けて、主の民すべてが預言者になればよいと切望しているのだ。」
(民数記11:28-29,新共同訳聖書-日本聖書協会)



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