たかぱん

  ゆるさないのは誰なのか

びっくり聖書解釈

 クリスチャンであることを、重荷に思う人もいます。
 クリスチャンでさえなければ、もっと悪いことをしても平気だったのに、などというのは、冗談のような冗談でないような声ですが、とにかくクリスチャンであるがゆえに、「こんなことをしてはいけない」というプレッシャーに囚われている人が、少なくありません。
 立派なことなので、それを単純に否定したり、嗤ったりすることはできません。でも、やはり思います。「クリスチャンらしくない」などと決めつけないでほしい、と。
 たしかに、イエスが神の子でない、と否定するのは、クリスチャンとしての資格を失うものかもしれません。それは、聖霊を冒涜することなのでしょう。また、自分を神とすることも、厳に禁じられることです。これは、一言でどうとか言うことのできない事柄なのですが。
 これら二つの禁止は、二つにして一つです。いけないのは、イエスを否定し、自分を神とすることです。そして、それ以外のことは、意外なことに、聖書はとくに禁じていないのです。
 むしろ、「こんなことをしてはいけない」「こんなことはゆるされない」と、強く思いこんでいるのは誰なのでしょう。自分ではありませんか。「自分のような者はゆるされない」と思うのは、まさに自分自身です。つまり、ゆるすとかゆるさないとかの基準を自分にもっていることになるのであり、それはとりもなおさず、自分を神としていることにほかなりません。
 イエスの十字架は、あなたを赦せないほど無力ではないのです。



人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。
しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。
(マルコによる福音書3:28-29/新共同訳-日本聖書協会)

Takapan
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