たかぱん

  自分さがしの占い

びっくり聖書解釈

 書店で、占いの本の前でじっと読み続ける女性を、よく見かけます。週刊誌やテレビのワイドショーでも、占いは花盛り。インターネットのサイトにも、メルマガにも、さまざま。ページを開くとランダムに「大吉」や「凶」などを表示するHTMLもあるくらい。
 人は、自分の責任で物事を決定することに、本能的に恐れを覚えるのでしょう。それで悪いことが起こった場合、すべてが自分の責任として及ぶことに。企業のトップは、その責任を負うがゆえに、労力の割には高額な給与があるはずなのですが、ニュースに出てくるトップは、おどおどして頭を下げるばかりで、どこが何の責任なのかよく分かりません。政治家にしても。
 聖書が占いを禁ずるのは、神ならぬものを神とするという、最大の罪のためです。しかしまた、たびたび聖書がそのことに言及するのは、実際は占いが多く行われていたことの反映にほかなりません。――ヤコブやヨセフの夢、エゼキエルやダニエルにしても、占いと紙一重ですし、サウルのように霊媒を用いたシーンもくっきりと描かれているのは、人が、何かと人間以外の理由をもちたかったからかもしれません。
 占いの記事を見て、「ああ、私はこんな性格だったんだ」なんて感想を抱く。自分というものを把握できず、それでいて自分を知りたくて、自分をさがして、今日もまた人は占いに首を突っ込む。そのとき、その占いに忠実に従うのは、むしろ滑稽です。占いで黄色がラッキーカラーだと言われて、服を全部黄色にするようなことは、たぶんしないでしょう。まあ、風水はそういうものかもしれませんが。
 神の言葉は占いではありません。強い意志による愛があるゆえに、こちらの気分によって左右されるようなものではないのです。だからこそ、神の言葉には従わなければならない。でなければ、聖書の言葉も風水に等しいものになってしまいます。
 自分をさがす必要はありません。もう、神はあなたをすでに見つけていますから。



占いや呪術を行ってはならない。
(レビ記19:26/新共同訳-日本聖書協会)

Takapan
びっくり聖書解釈にもどります たかぱんワイドのトップページにもどります






 
inserted by FC2 system