たかぱん

 十字架のどこにいるのか

びっくり聖書解釈

 レンブラントの「十字架建立」という画には、キリストが釘付けにされた十字架を起こしている人物が描かれています。そのうちの一人が自画像だと言われています。つまり、十字架につけろと叫んだ側の一人に自分を置いているようです。
 こうして起こされると、イエスは自分の体重そのものによって、肉がちぎれるような痛みに苛まれることになります。その十字架を起こす男には、痛みはないにしても、イエスの重みがぐっと加わります。
 死の苦しみはないにしても、曲がりなりにも、主の重みを体験しています。
 思えば、ウィア・ドロローサにおいて、シモンというキレネ人に十字架の重みを担わせています。シモンもまた、主にかかる重みというものを、体験したことになります。
 もちろん、イエスは、その体重による痛み以上に、すべての人間の罪を負っていますから、苦しみの極みはもはや私たち人間には推測すら不可能なものとなっています。
 さて、私は、その十字架の図像の、どこにいるでしょうか。
 十字架のキリストの上に乗って、無邪気に飛び跳ねているような気がしてなりません。ますますその重みとショックが、主を苦しめていることに、気づこうともしないで……。



彼が担ったのはわたしたちの病
彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに
わたしたちは思っていた
神の手にかかり、打たれたから
彼は苦しんでいるのだ、と。
(イザヤ53:4/新共同訳-日本聖書協会)

Takapan
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