たかぱん

 言葉と存在

びっくり聖書解釈

 一歳二ヶ月くらいになってくると、言葉がだいぶ分かってきます。単語として理解されてくるために、文脈に関係なく反応することがあるのも面白いものです。
「バナナがなくなったから、買ってこなきゃいけないね」
 そんな話をしていると、「バナナ」の単語に反応します。そして「まんま、まんま」と興奮しながら駆け寄ってきます。「バナナがあるって? どこ? 食べたいよ」という感じです。
「今度の休みに、どこに行こうか?」
 そんな話をしていると、「行こう」の単語に反応します。そして、にこにこしながら玄関へ行き、座り込んで自分の靴を片手に高々と差し上げます。「どこに行くの? お外ならボク行くよ。どこか連れていって」という感じです。
 大人は、単語の言葉を、否定にも未来にも使いますが、子どもにとっては、その単語そのものが存在を意味しているようです。
 神さまの発する言葉も、悉く存在となりました。神においては、言葉は即存在です。私たちが言葉として把握しているあらゆるものが存在しています。たとえ私たちが知らなくても、目に見えなくても、言葉にできるものは、神の内に存在しているのです。
 だから、幼子のほうが、天国に近いのかもしれません。



信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉によって創造され、従って見えるものは、目に見えているものからできたのではないことが分かるのです。
(ヘブライ人への手紙11:3/新共同訳-日本聖書協会)

Takapan
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