たかぱん

 廃墟はどこに

びっくり聖書解釈

 捕囚に遭ったイスラエル民族がようやく故郷に戻り、神殿建設にとりかかったというのに、妨害や政情のために工事が中断してしまいました。
 中断しているうち、人々は、もう神殿はそのままでもいい、というような気持ちになったようです。だんだん自分の生活のことに忙しくなり、神殿はほうっておかれるようになりました。
 そのとき、主の言葉を預言者ハガイが告げました。泥土や日干しレンガが普通のところを板張りという高級な家にして暮らしている人々よ、廃墟となった神殿を見よ……。これでいいのか?
 他人のこと、神のことを蔑ろにして、自分のことばかり考えがちな私たち。自分のことでなく、もっと神のために――そういう意味でしょうか。
 それが正当な理解でよいはずです。でも、私は、神の宮のことを「廃墟」と呼んでしまうことに抵抗があります。その代わりに、「あなたたちは神の神殿である」というパウロの言葉(コリント一3:16)を適用してみたいと思うのです。
 お前自身は――私自身は、廃墟のままではないか。見かけだけごまかすように飾っておきながら、自分自身の魂は荒れ放題ではないか。
 だからこそ、「自分の歩む道に心を留めよ」と繰り返し付け加えられているのでしょう。神が荒んでいるのではなくて、廃墟同然なのは、私自身なのでしょう。
 わが魂よ。お前は喜んでいるか。祈っているか。賛美しているか。お前は虚飾のために無駄な労苦をしているのではないのか。



今、お前たちは、この神殿を
廃墟のままにしておきながら
自分たちは板ではった家に住んでいてよいのか。
今、万軍の主はこう言われる。
お前たちは自分の歩む道に心を留めよ。
(ハガイ1:4-5/新共同訳-日本聖書協会)

Takapan
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