たかぱん

  巧妙な奴隷制度

びっくり聖書解釈

 聖書にしばしば登場する「奴隷」という言葉は、現代では制度としては存在しないと言ってもよいかもしれません。けれども、「昔はそんなこともあったのだ」というとらえ方でよいのかどうか。
 会社の命令だから、表示を書き換えて売っていた人々。会社の奴隷だったのです。会社の命ずるままに、休日も時間外も働き続ける人も、また。
 個人的に、表示をごまかして販売していた店の人。金儲けの奴隷です。金さえ得られるなら、嘘も方便などと自分に言い聞かせていますが、金のためならなんでもするとなると。
 理不尽な要求をする保護者の言いなりになる教師も、逆に、学校に子どもを人質にとられている感覚をもつ保護者も、地域のつきあいのために意に反する宗教行事に従う人も、やはり、奴隷のように、自由になれないでいます。自分をいじめる集団に強制的に所属させられる、学校でのいじめの問題もまた、奴隷的な状態ではないでしょうか。
 ……もちろん、自分勝手に誰でも生きればいい、という考えは危険です。自分の欲望のままに生きることが自由ではなく、その欲望を起こさせるものの奴隷になっている、ということに気づかなければなりません。
 ここに、一つのよい知らせがあります。あなたが、神に知られているということです。あなたは孤独ではない。その確信が、どんなに力になることか……。そして、たとえ身体的には束縛されていたにしても、精神的には、奴隷ではなく、自由にいることができますように。



しかし、今は神を知っている、いや、むしろ神から知られているのに、
なぜ、あの無力で頼りにならない支配する諸霊の下に逆戻りし、
もう一度改めて奴隷として仕えようとしているのですか。
(ガラテヤの信徒への手紙4:9/新共同訳-日本聖書協会)

Takapan
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