たかぱん

 後ろ姿は何のサイン?

びっくり聖書解釈

 街を歩いています。のんびり歩いていたら、自分の横を足早に抜き去っていく人がいました。
 ただそれだけの風景に、「あ。自分が邪魔をしていたかな」と想像できる人がいたら、すばらしいイマジネーションがあると、たかぱんは拍手しましょう。
 たとえば、歩道をとろとろと広がって歩く人がいる。後ろから急ぎの人が、抜こうと思うけれど抜けない。エスカレータなどでもよくある風景です。後ろで苛立つ人は、文句を言って逆ギレされてもたまらないものだから、黙って耐えています。やっと抜けるだけのスペースができたとき、やれやれと思いながらさあーっと抜いて歩き去っていく……。
 そういうことは、抜く側の立場になると、よくあることだと分かります。しかし、邪魔をしていた方は、横をただ抜いた人が、ごく自然に今歩いていったとしか思えない。いえ、そういう人を意識さえしないものです。
 そこにある後ろ姿は、どんな意味があるのでしょう。今まで私の後ろを見ていた人は、どんなふうに思っていたのでしょう。そう気がつくと、自分自身を省みるもっともよい機会を得ることができます。しかし悲しいかな、私たちは、その後ろ姿にさえ気がつかないでいるのです。
 モーセが神を見たいと言ったとき、神は、モーセに岩のそばに立つよう命じました。神はモーセを、岩の裂け目に入れ、そのそばを神自身が通り過ぎる、と説明しました。ただし、後ろ姿だけは見えるけれど、顔は見ることができない、と付け加えます。
 凡人には、神の後ろ姿さえ見えていないのです。たった今、自分を守り支え、恵みを与えてくださった神の後ろ姿さえも。 



わたしが手を離すとき、あなたはわたしの後ろを見るが、
わたしの顔は見えない。
(出エジプト記33:23/新共同訳-日本聖書協会)

Takapan
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