たかぱん

  被害者の節度

びっくり聖書解釈

――じゃあ、おまえが被害者になってみろ、そうすれば考えが変わるに違いない、というふうな批判を受けることを承知で、発言します。
 被害者であるがゆえに、加害者のことをオニだケダモノだ、とののしることは、まずいと思うのです。それについては、加害者にも人権があるから、などという説明の仕方もありますが、それよりも、いつの間にか被害者が、加害者の側になっていくことを、私が一番恐れるからなのです。
 被害者は、そうされる謂われがないのに、故なくして害を受けてしまった人のことです。だから、害を与えた者に対しては、一方的に正義であることができます。自分は被害者なのだから、何をしてもよいのだ、という推論に走りたくなります。
 物を壊された人は、壊された物について弁償してもらうことになります。また、それに伴う精神的な部分を含む損害の量を、専門家が調べて、加害者に請求することになります。そうして補充されたとしたら、それを超えた範囲以上のことを加害者に求めることをしてはいけません。ある程度保証してもらったら、それを超える部分は、自分が正義の味方のつもりで、余分にはみ出していってしまいます。自分がついた悪態ばかりが生き残り、それが却って自分のことを貶めていくことになるかもしれません。
 命を奪われた場合は、償ってもらったことで生き返ることにはなりません。加害者は何をしても、償うことが不可能となってしまいますが、それでも、被害者の遺族が一方的に加害者のことをののしり、ケダモノ呼ばわりしているようでは、被害者のほうが価値を落としてしまいます。このときには、遺族の側にののしる感情があることそのものを否定しはしません。でも、一定の謝罪の意思があるならば、いたずらにケダモノ呼ばわりしていると、自分の心の方が荒んでいくことになります。
 聖書は、報復に限度を設けています。目なら目だけ、歯なら歯だけ、やられた以上の仕返しをしてはいけないのです。被害者だから、加害者に何を言っても許される……と考えるのは、明らかに悪い意味で甘えた思考回路です。罵声を浴びせられたのでない場合は、加害者に対して罵声を浴びせるならば、された以上のことを返していることになるかもしれません。
 聖書では、正確に考えて、自分がやられたことを超えて報復してはならない、と繰り返しています。目をやられたら、目のほかにもやっつけてやりたいという感情があります。でも、目をやられたら、せいぜい目までしかやり返してはならない、と神が命ずることによって、無限連鎖の報復が終わる可能性が見えてくるかもしれません。
 被害者はまわりから同情され、何をしても許されるような雰囲気になります。しかし、被害者の節度というものも、あるのではないか、と私は思います。



あなたは憐れみをかけてはならない。命には命、目には目、歯には歯、手には手、足には足を報いなければならない。
(申命記19:21/新共同訳-日本聖書協会)

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