たかぱん

 信徒と牧会者

びっくり聖書解釈

 いろいろなタイプの牧師がいます。リーダーシップのある牧師。実に腰が低い牧師。どちらがよいなどと言うつもりはありません。ワンマンになりすぎるのも問題ですし、羊たちに気を遣うばかりで右往左往するのも困ります。また、それはその宗派や教団の体質にも関係する場合があります。教会の数だけ、信徒と牧師の関係はあるのです。
 ただ、牧師は信徒よりも信仰的に上に立つというとらえ方は、一般的にされていると思います。一種のプロとして、生徒である信徒に対して、教師の立場にある、と。神学を学ぶ時間と機会はもちろん信徒より多いでしょうし、生活も束縛されていないことがほとんどです。そのために、信徒は牧師を頼ります。……いえ、牧師に対しては、いくらかの遠慮をしてしまいます。
 旧約聖書の時代は、この牧師に相当する専門家のリーダーのことを「祭司」と呼びました。また、祭司ほどではないのですが、一般人と異なり祭司の補助をする多くの人々――それを一つの部族に匹敵するような呼び方さえするのですが――のことを、「レビ人」と呼びました。当然、祭司は少なく、レビ人の方が多くなります。今の社会でいえば、おそらく、祭司が牧会者で、レビ人が教会に通う信徒のように考えられて然るべきではないでしようか。
 ヒゼキヤ王は、神殿の修理をしたとき、国民を一つの信仰にまとめあげるために大きな儀式を執り行いました。そのとき、レビ人は祭司たちよりも「忠実」であった、と記されています。
 信徒としての立場にある者も、何ら遠慮する必要はないのです。



ただ祭司は数が少なく、焼き尽くす献げ物全部の動物の皮をはぐことができなかった。そこで、その作業が終わるまで、あるいは他の祭司たちが自分を聖別するまで、彼らの兄弟であるレビ人が彼らを助けた。レビ人は自分を聖別することについて祭司たちよりも忠実だったからである。
(歴代誌下29:34/新共同訳-日本聖書協会)

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