日本ではなぜ福音宣教が実を結ばなかったか

2012年10月

 『日本ではなぜ福音宣教が実を結ばなかったか』/研究会Fグループ/いのちのことば社/\525/2012.9.

 ショッキングなタイトルの本をご紹介する。

 また、これを、キリスト教世界内部の有志に紹介するのならともかく、こうして世間一般にお知らせするというのは、顰蹙であるかもしれない、とも感じる。自社の恥部をさらけ出すかのような罪悪感を覚えないわけではない。

 だが、それよりも、さらに広くキリスト者の皆さまの目に止まるようにして戴きたいのと、これは見るに値するブックレットであるという点をご紹介申し上げたいのである。

 これは五人の、70〜40代の、牧師やキリスト教関係の役員や教育に携わった方々による共同研究である。また、それは意識的にカトリックの方を話の場にお呼びすることはなく、プロテスタント側の関心と立場からの意見収集に努めたのだという。

 それはKJ法により行われた。アイディアをとにかく出しまくり、カードに記し続ける。後でそれらを共通項のあるものにまとめつつ、全体像を構成していくというものである。ひとつひとつのアイディアを潰すことなく、活かしていく。その上で、分類に時間をかける。すると、新たな地平が見えていくというものである。

 キリスト教の伝道は実を結ばなかった、その思いを、こうしたベテランの指導者たちは間違いなく抱いている。様々な意味合いの中で、福音宣教ができていった、よかった、とする見方が亡いわけではない。神の業として、良いところを見失っているというものではない。だが、それに甘んじて、現実のこの教会の衰退現象を安穏と肯定していてよいとは思わない、という立場からスタートしている。

 実に耳の痛い話である。できれば聞きたくないし、考えたくもない。自分の生きてきた道が失敗だ、と繰り返されるのである。だが、そもそもキリスト者というものは、自分の罪を認めたところから歩みが始まったのではなかったか。自分に罪がない、などと言うものが決してイエスの十字架を救いを見ることができないはずであったのに、どうして今、自分の伝道が、日本の伝道が失敗であったことを見つめようとしないのか。ここは我慢してそこに目を向ける必要があるだろう。いや、目を背けては断じてならない。

 やはり、とんでもない本だ、と言われることを承知の上で、それでも出さねばならないという断腸の思いで、出版されていることだと思う。それを、馬鹿なことをするもんだと一蹴する人もいるかもしれないが、私は正面から受けようと思う。そして、未来のためにも、どうすればよいのか、どう祈っていけばよいのか、考えたいと切に思う。つまりは、この本の試みを全面的に支持しようと考えている。

 KJ法で案をまとめていった末、失敗の柱として三つの項目が浮かび上がったという。それらをここで全部そのままにご紹介することは差し控えるが、おおまかにだけ挙げると、日本の教会がキリストに従っていなかった点、牧師の至らなさの点、島国日本特有の劣等感という点の三つである。本の初めのほうでは、これらの項目のもとに、出された意見をほぼ列挙するような形でまとめてある。いや、まとめているというよりは、本当に意見の羅列であるかのようだ。しかしこれがまた味わいがある。ある一人の人格の中でまとめられたとき、自然と、その人物の論理の中で取り扱い方に偏りが出てくる。しかし列挙だとごまかしがない。どんな小さな意見もそこに一つの存在意義をもって並んでいる。だから、読者としては、その小さな声に特に響くものを有する故に大切なことに気づかされる、ということがありうるからである。たとえば私は、第一の柱の中にあった小さな声、「教会が仲良しサロン化していて新参者が入りにくい」という、その後大きく取り上げられることのなかった意見に、いたく共感をもった。読者の心の中にあるある視点が、くっきりと描き出され、意識に上るようになるという点で、貴重なデータとなりうると思うのだ。

 中途からは、この五人の方々それぞれの小論文が掲載されている。それぞれの経験や立場から、感じたことや信念のようなものが綴られており、これはこれで味わいがある。やはり一人の人格の中で経てきた道ということには、断片的ではない真実がある。これもまた、人生経験として響くものがありうるはずである。大部ではないが、じっくり、言いたいことが述べられていると見てよいように見受けられる。自らの腹を掻ききるかのように、拙いところを吐き出す作業は、書く当人の痛みも伴ったことであろう。しかし、これを隠したままにしていては、後に続く世代も同じ轍を踏むことになる、あるいはこの傾きかけた状況をどう立て直すか、後世代が自らあみ出さなければならない。この状況を作り出した当人たちが感じる失敗の原因を晒すことがなければ、ただこの状況が与えられた人々にはそれを探ることができないかもしれないのである。だから、勇気ある公表であるとともに、それを必要な公表であるとして、次の世代が必ず受け止めなければならない、と私は思うのである。

 実のところ、この小さな本には、聖書からの引用と言えるものが殆どない。後の小論文には根拠として引照個所が示されているところも少しあるが、概して殆どない。これについて、よくある、当たり障りのない反省がある。それは、聖書の中にはこのように書いてある、と聖句を引用してくるのである。キリスト者は聖書に従わなければならない、だから聖書に何が書いてあるか、それを参考にすることが信仰的なのであって、聖書を基にしない考察は人間的で不信仰である、などというのである。だが、私はそうは思わない。聖書はイスラエルの社会と歴史の中で記されている。ローマ帝国の支配状況と当時の法律の下での考え方がある。聖書を文字通りに全部そのまま信じ実践することが福音だ、などという言明には賛同できない。それならば、教会で女性はベールをかぶるべきであり、女性は黙っていなければならない。奴隷の扱いを守らなければならないし、子どもには鞭打つべきである。聖書だけだ、と声を挙げるグループが、これらを遵守している話は聞かない。つまりは、自分の都合のよいところだけを守り恰好付けている場合もあるのである。私たちはこの社会にもしイエスが立っていて声を発するとしたら、どう言うであろうか、あるいは同じ言葉をイエスが語ったときに、私たちはどう受け止めていくとよいのか、それを考えねばならないが、それは実に難しい。当時のあの優れた弟子たちでさえ、言われた当初は意味を全くといってよいほど理解できなかったのである。私たちにそれができるかどうかと言われたら、私などは全く自信がない。だが、弟子たちの失敗例を私たちは学んでいる。だから少しでも、それを回避できるように、聖書の言葉の意味を聞こうと謙虚にならなければならない。表面上の言葉の意味だけを勝手に解釈したのが、あの弟子たちの失敗ではなかっただろうか。

 この小さなブックレットが、反省点の完成ではない。この提言を土台として、キリスト者がすべて、失敗の反省をしなければならない。私は最近、そういう観点から、福音宣教の拙いところを吐露したいくつかの本を読もうとしている。そういう本が、少しずつ出てきている。ある本では、戦後のブームの幻をいつまでも追い、あのころは子どもがいくらでもいたが、などと懐古しているふうではいけない、と言っている。むしろ、あれは特殊な事情のもとに起こっていたことであって、今の置かれた状況のほうがノーマルに近いのではないか、などとも。さらに言えば、そんなにすべての人が救われるものでもない、という諦観さえありうると思う。神はすべての人が救われるのを望んではいるが、審きがあることも事実であるとするなら、選ばれる者は少ないかもしれないであろう。キリスト者である自分もそれに選ばれているのかどうか、自分で決めることはできない。だからこそ、信仰というものの存在意義がある。そういう状況の中での、信仰なのだ。

 本当の意味で「実を結ばなかった」と言ってしまってよいのかどうか、そういうところにももちろん疑念がある。神の目には、数少なくてもよい実りがあったと映っているのかもしれないからだ。しかし、それはそれとして、私たちは自分の責任や至らなさといったものから目を背けてはならない、少なくともそのように感じながら、今日もまた、明日もまた、自分にできる小さな一つ一つのことをしていくほかはない。そのベースの上で、この本が挙げているような、島国的な精神に気づいた生き方をしていければ、とも願う。私の受け止めたその一番の問題は、日本人が、結局のところ自分たちは優れていると確信している根本的な考え方の点であった。自分の中にしみついたこの精神は、ほうっておくと自分を一方的に蝕んでいくほかないものである。

 他方、こうした自分自身に気づいて、その変革を図ることができる点が、キリスト教の実によいところである、と私はまた信じている。このブックレットと、向き合っていくことは、大切な営みであるのではないか、と私は真底思っている。

 


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