当たり前の子育て

2003年9月

 このたび私は、再び子育て(赤ちゃん)をするようになりました。上の子が大きいせいか、幾分余裕のようなものを感じています。それは簡単とか楽とかいうことではなくて、視野が少し広く感ずるということです。上の子の世話とのかねあいに苦労するというよりも、上の子も助け手となってくれることにもよるかもしれません。
 聖書の中で、子育てはどのように描かれているか、考えてみました。結論として、あまり描かれていないと言えそうです。
 それが女性の仕事であるからかもしれず、また、もしかすると子育てということは当たり前すぎて、話題にすら上らない性質のものであったかもしれず、実際、歴史的な記録の中に留める内容とは見なされなかったのでしょう。できれば、当時の育児の常識とか、育児の道具とかを知りたいという気持ちはあります。
 ……まったくそれがないわけではありません。箴言あたりには、子育てに関する教訓があるように見えます。ハガルとイシュマエルのあたりに描かれているようにも考えられますが、子育てとまでは言えない状況です。
 申命記では、子どもに如何に神の言葉を教え徹底させるかが記されています。それは神の命令として書かれています。エリシャは子どもを生き返らせたり、また自分をはげとからかった子どもたちを殺すこともしました。敵に城壁を囲まれたイスラエルの民は、子どもを煮て食べるほどにまで追いつめられました。
 全般的に、聖書では、子どもができるかできないか、が関心のすべてのようです。
 なお、新共同訳聖書では、カトリックとの合同編集ですので、プロテスタントでは使わない、「続編」なるものも正式に訳出されています。外典などとも呼ばれるこの「続編」のほうに、実は子どもについての叙述がたくさんあるのです。「子供」が全部で396件ヒットしたうち、「続編」にあるその語は、93を数えます。ちなみに旧約が205、新約が98です。新約は、パウロ書簡にあるように、たとえや説明の中での用法が多く、実際の子どもを指すケースは少なくなっています。

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 子育ての細々としたノウハウは、ついに聖書の中には出てきませんでした。子育ては女性がするもので、父親は家庭の権威的な象徴として子育てに関わりはするのでしょうが、直接的な手取り足取りの子育てをするものではなかったことでしょう。父は精神的に、母は実際的・情愛的に子育てをしていくとでも言うべきでしょうか。
 親が子を育てるということは、当たり前すぎて、いちいちイスラエルの歴史書や教訓書には描かれることがなかったのでしょう。しかし現代では、子育てが問題化されています。どう子育てをするべきか、盛んに議論され、社会問題とされています。これは、当たり前ではなくなったがゆえに、と理解しなければなりません。当たり前と信じられてきたことが、実は当たり前ではない、と反省されたから、こうなったのだと思います。

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 子育ては、実際にどうするというノウハウも大切ですが、何気ない行為・ルーチンの中に、大切な背景を含んでいます。何をしていても、ちょっと話しかけてやる、見つめてやる、抱きしめる、そうした行為が必要です。安心させ、信頼することを覚えていくには、そうした日常がなければいけません。栄養さえ与えておけばいいというのでなく、授乳には語りかけと見つめることが必需なのです。
 それが、母から娘、娘からまたその子へと伝えられる知恵でした。もちろん、息子であってもよいのですが。
 その知恵の伝達が、途切れていく危険が感じられているから、子育てが当たり前のものでなくなっているのかもしれません。
 たしかに知識はあるのでしょう。情報は多く、ネットの中にも子育てに関する情報が溢れています。情報誌もいくらでも出回っています。ですが、それがどこかバーチャルな知識に留まり、血となり肉となることがなくなっているとすれば、大問題です。学校による教育は、知識なら賄えるでしょうが、日常生活は家庭を学びの場としなければ始まらないでしょう。
 人の手で育てられた動物園の動物が、子育ての仕方を知らない、といった報告をふと思い出します。

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 さて、この時代にあって、教会学校では、子どもたちをどう教えていけばよいのでしょう。
 知識のノウハウではなく、血となり肉となる、精神的なもの、霊的なもの――と、多くの人は考えます。ある意味で間違ってはいませんが、私はそれを押し進めるつもりはありません。
 教会学校は(そしてたぶん学校というものはすべて)、知識を教えてよいと思うのです。
 それでいて、教義を伝えればよいとの満足ではなく、それが生(なま)の感覚を伴った生きる場で使えることに自信をつけさせてやるべきです。つまり、知識さえ教えればよいという意味ではなくて、知識を教えれば、当然それが実際に活かされるという前提を求めるということです。
 学校で、道徳を教えながら、実際の生活ではそんな道徳は通用しない、と大人はせせら笑っています。建前はそうかもしれないけれど、現実には通用しないよ、と子どもたちに強調するのです。そんなことであってはいけない。こんなことだから、学校はますます建前だけの場と見なされ、学校の教師は画餅を教えるだけと馬鹿にされ、正しいことをやりたいと願う子どもたちの心は歪み、ますます悪に同調するばかりの者が生き残ることになってゆきます。
 子どもは、知識を行動に結びつけたいのです。
 まず理解することにより、子どもたちは、その通りに行動すべきだというふうに考えます。それを大切にしてやればよいのです。そのためにはまた、言葉以前の、愛される体験がなければなりませんし、愛されていると感じる場所、自分の居場所というものが確固たるものとして存在していなければなりません。
 教会学校は、そういう場所として機能し、知識を伝え、その知識の通りに生きることが尊いものであることを、自信をもって教えなければなりません。そのために、大人もまたそのように生きることを実行する必要があるのです。

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 イスラエルでの現代の教育もまた、聖書を基準として、然りは然り、否は否と厳しく教育がなされているといいます。とくに家庭でも、親が確固たる信念に基づいて教育がなされているのです。何でも子どもの自由にさせます、という、一見優しいような態度は、子どもをだめにするものであることを、よく知っているからでしょう。
 当たり前すぎて、聖書にとりたてて載せられていないことが沢山あります。私たちは、当たり前のことを回復する時代に置かれています。それは危機的な状況かもしれないけれども、再び当たり前を確立するという、楽しみでもあります。
 教会学校という場で、当たり前のことを教えていきたいし、人間として当たり前の生き方を自らもしていきたいと願うのです。


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