続・祈りの言葉も出てこない

2005年12月


 祈りの言葉も出てこない、なんてことは牧師というプロとして考え直して戴きたい――そんなきつい提言をしたことがあります。
 佐世保の小六生の殺害事件に関して、長崎の牧師の方々がその事件について言及している記事をまとめて、キリスト教の新聞社に、「祈りの言葉も出てこない」というタイトルで書かれていた記事に対しての、私の感想でした。
 よくも、思い上がりも甚だしい、と反省もしました。偉そうなことを言える立場でもないし、私なんか何の力にもなってやいないし、その事件のことで苦労しているわけでもないではないか。何様のつもりなのだ、と。しかし、言ったのは私ではなくて、私を通して霊が語ったのだとすれば、それを隠す必要もあるまい、とも思い、削除するようなことはしませんでした。
 
 その後、当のその長崎の牧師のある方と直接語り合う機会があって、逆に恐縮しました。「たかぱんワイド」の記事をもちろん十分お読みでした。寛大な方でしたので、むしろ私の記事に対して協力的な見方をしてくださいました。そもそも、あのタイトルは、牧師の方々の、というよりも、やはり新聞社の方針で付けたタイトルのようでもあったそうです。
 
 事件は2004年の6月でしたから、一年と半年が経ちました。
 私の中では、あの事件は忘れられないものであり、もっと言えば、毎日思い起こしています。というのは、毎日、あの事件についての新しい報道はないか、と必ず一日何度かネットで調べるからです。
 長崎では、若い人々の自殺も相次いでいるという状況もあります。そんな中、心を癒す、あるいは救うような動きを、と長崎地区の牧師などが始めていました。そして、「神」ということを強調しないでも、長崎の学校に配布するためにCDを製作し、そのための献金を募るということにもなりました。私たちも、2枚分を献金し、1枚を送って戴きました。
ライン 教会 ライン

「祈りの言葉も出てこない」
 言葉としては、いかにも辛い気持ちを表すような言葉です。人間の辛さや、優しさを滲ませるかのような言葉です。
 けれども、私はやはり、この言葉は、相応しくない、と今でも捉えています。祈らなければならない、と思うのです。祈りが出ないのではいけない、と。
 
 一つには、言葉の定義の問題があると思われます。プラトン以来言葉の定義で哲学は議論がなされていただけだ、という考え方もあるくらいで、要するに言葉の意味の受け取り方が違えば、当然話が噛み合いません。
 ここでいう「祈り」とは何でしょうか。「出てこない祈り」というときの「祈り」とは、パブリックな、あるいは言葉としてすらすらと唱えられて出てくるような祈り、のことかもしれません。いかにも流暢に、「天の父なる神さま、……イエス・キリストの御名によってお祈りします、アーメン!」という祈りが、佐世保の事件の後で口から出されたとしたら、それはいかにも軽薄な感じにも聞こえ、また、祈った自己満足で終わりそうだから、そういった美しい言葉で飾る「祈り」を出すことが憚られる――そうした意味で、かの新聞の記事は、書かれていたと思うのです。私は勝手にですが、好意的に、そう受け止めています。
 
 しかし、そのような、いわばどこか形式的な「祈り」とは違うところに、「祈り」というものを捉えているとすれば、「祈りの言葉も出てこない」というのは、なんとも聖書や教会とは遠いところにある響きに聞こえてなりません。
 言葉にならない呻きのような祈りが、あります。ただ「主よ……」とだけ呟いた後に、絶句してしまうのも、また「祈り」でしょう。「主よ、何故ですか」と神に議論を挑んだり挑戦したりするのも、また確かに「祈り」だと考えられます。
 たとえ言葉では反抗していても、神の方を向いて発している言葉は、間違いなく「祈り」と呼べる、という考え方もあるはずです。
 
 惨い事件に、神も仏もあるものか、と呟く心も世の中にはあります。ですが、クリスチャンは神の僕です。そんなことは言いません。不満すらぶつけることのできる、神があるからです。
 そんな神に対して、「言葉にならない祈り」をするのだ――プロの牧師先生には、そのことを教えて戴きたかったというのが、私の本意でした。
 不思議なもので、流暢に語る「祈り」の意味が、ここでは「言葉」という語にこめられています。私たちが、「祈り」というものを、活字にすると美しい文章になるものとしてしか捉えていないとすれば、それはただの「言葉」でしかありません。どんなに美しい言葉でも、それが神という相手に向けられていなければ、「言葉」でしかない、というわけです。
 逆に、神に対して向けられている限り、どんなにお粗末な「言葉」であったとしても、それは限りない力をもつ「祈り」です。
 だから、「言葉にならない祈り」が、こんな惨い知らせのあったときに、クリスチャンたちを貫いている事実を、私たちは確認したいし、それが必要なことなのだ、とプロの牧師先生方が模範として示してほしい、などと、私はずっと思っていたのでした。


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