教会奉仕と報酬、そして企業という模範

2007年1月

 奉仕と報酬という言葉は、本来両立しません。報酬を求めないがゆえに、奉仕だと称されるのです。しかし、そのような言葉の定義を問題としているのではないので、しばらくご辛抱ください。

 

 他国の教会では、教会のために働く人に対して、教会が給与を出していることがあると聞きました。

 いえ、日本でも、牧師はもちろん、伝道師という名前の役職に対して、給与を出すのは普通のことであるとされています。しかし、教会学校の担当者として、いわばフルタイムに働く人を定め、たとえば夏休みには一週間単位のキャンプに何度も出向いてもらう、などというケースは、あまり聞くことがありません。こうした仕事をする人は、やはり教会が生活保障をしていかなければならないことになるでしょう。

 

 教会員が多く、財政的な基盤があると、それも可能となるでしょう。しかし日本の場合には、そういう財政的なゆとりのある教会は稀です。どこも中小企業、いえそれより小規模の合名会社合資会社という段階のものが殆どであるかのように見えます。となると、働き人を雇うということ自体が、発想からしてありえないものであるでしょう。

 中には、牧師に対して給与を出せない教会もあります。牧師が他の一般の職業を営みつつ、日曜日や他の集会のときだけ牧師として働くということも、珍しくないわけです。

 

 小さな教会でも、一定の執事などの役員を置くことが通例です。宗教法人であるならばそれは法的に義務づけられます。

 また、小さいがゆえに、執事に留まらず、教会学校だの礼典委員だの会堂建築委員だの、様々な役職を兼任することになります。これに壮年会や婦人会などの方面も入れると、並大抵のことではありません。そういうことのできるメンバーが限られてくるからです。奏楽者がそうなると、さらに……。

 教会生活の基盤のできている教会員は、いくつもの役職を抱えて、日曜日の午後も会議が続き、週の生活の中でもそのための準備をしていかなければならなくなります。それも、自分の職業や家庭での役割をこなした上でのことですから、過酷なスケジュールと言わなければなりません。

 妙な言い方ですが、聖書を読む暇さえなくなります。

 

 しかし、このように睡眠さえ削って教会のために働いている教会員も、しょせん「奉仕者」でしかありません。奉仕なのであって、教会からそのための報酬をもらうことはありません。あまつさえ、教会に「献金」をたくさんするように求められます。くたくたに奉仕した上に、たくさん教会に献金することが信仰の証しであるという教えを受けます。

 へたをすると、これは統一協会と同じ姿です。

 そこまで言わなくても、サービス残業を強いられるこの世の論理と、同じことを教会がただやっているだけというのは、否定しようがないと思うのです。

 

 タダ働きを強いられる教会の役員。これでよいのでしょうか。

 システム的に問題があるとしても、それはしょせん貧しい教会財政の中。報酬を出せというのも困難でしょう。しかし、最初に申しましたように「奉仕」の名のもとに「報酬」を求めることの矛盾のゆえに、誰も要求することがない現実に、甘えてはいないでしょうか。

 

 どうすればよいでしょう。

 やはり一定の奉仕者に対しては、それなりの報酬を与えていくという方法が考えられます。しかしそのためには、教会の規模が小さくては事実上難しくなります。

 企業なら、こういう場合、どうするでしょう。

 そう、合併です。リストラです。

 リストラとは、解雇のことを言うのではありません。再構築するということですから、構造を見直して合理的に変更していく試みを言います。そのうちのひとつが合併であるとも言えるでしょう。教会の規模を大きくするのです。

 どだい、小さな街の中に、ちょっと宗派が違うというだけで、細々とした教会が乱立している現実があります。もちろん、それぞれの教会の持ち味というものがあって、枝々の働きは違っていてよいのですが、互いに小さすぎて力をもたないままに、息を潜めた活動しかしていない現状があるかと思います。

 企業で言うなら「体力」を増やして、活動的になっていくことが必要です。

 小さな教会が集まって催しをすることがあります、やはり各教会に戻れば、他教会とは違うのだから、とそれぞれの動きに留まってしまうのが現実です。超教派の集いなどと言いますが、たいていはその場限りの一時的なものです。持続力がありません。

 教会そのものが、一定の大きさとなり、一定の力をもつような、大きな規模となっていくことも、考慮に入れなければならないのではないでしょうか。

 もちろん、小さな教会は存在意義がない、というつもりはありません。

 たとえるなら、近所の小さな八百屋さんや魚屋さんにも味があり、必要なものですが、力をもつ商業となると、大規模店舗をどんと構えるショッピングセンターが有力なのであって、小規模な店やチェーン店も、そのセンターの中に入ることで勢いを増すことが可能になります。

 

 老舗の格式などにこだわり、合併や大規模施設への入店を拒み続ける店は、ついにその営業が破綻するに至っている現実があります。

 教会の論理は、この世の論理と違う、という理屈が常々出されますが、この世のサービス残業や過労問題という論理をそのまま実践している現状では、その説得力はありません。賢く振る舞うことは、求められている事柄でもあるのです。企業が生き延びるために、断腸の思いで実践していることを、教会が見下す理屈はありません。

 そうでなくても、精神的に、信仰という灯火が危うい現実があります。財政的にまだ体力のある欧米の教会においては、その危機が当然の問題として掲げられています。また、発展途上国と呼ばれている地域では、生活の困難さにも増して、あるいはそれがゆえに、信仰の力が強く現れてきているとも言われます。

 このままでは、日本の教会は、精神的にも、財政的にも、とめどなく暗黒の方角へ向かって落ち込んでいくような気がしてなりません。

 これらは、どちらも向上していくことが可能だと思われます。

 企業の生き残り戦術からも学び、まさにリバイバルしていくことが必要なのではないかと提言致します。




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