牧師のSOS

2007年11月

 クリスチャン新聞にあった記事ですが、牧師のSOSという話題が目を惹きました。

「人間関係が築けない、精神的疲労、危機対応の失敗など、牧師のストレスが増加し、辞任せざるを得ない例も少なくない」というのです。

 牧師というのが、大変な仕事だということは、想像に難くありません。礼拝で講壇に立ったところ、誰も教会に来ていないという夢を見てうなされて起きた、などということも、幾度となく聞いたことがあります。

 東京基督教大学の国際宣教センターで教会教職育成継続プログラムが開催されたといいます。テーマは「牧師のSOSと危機対応」であるといいます。

 

 聖書を語ることが第一であるほかに、カウンセリングも必要でしょうし、宗教法人の代表としての実務もありましょう。渉外は実質牧師がすべてもつでしょうし、ほんとうに数え切れないほどのなすべきことがあるはずです。

 その牧師が、忙殺されてストレスが溜まる、というのならば、まことに同情申し上げるほかなく、その忙しさに対して何とか手伝って軽減していきたいと思うのは、信徒ならずとも、人情としてあるでしょう。

 そのカウンセリングにしても、専門的な学びや研修をどれほどしているかというと、まことに頼りないものです。聖書の学びのほかは、素人同然の状態で任されているようなところがあります。

 だからこそ、牧師は、聖書については妥協なく、とことん調べて語っていく義務を負っています。

 

 しかし、私が実に驚いたことがあります。

 牧師の問題について、その新聞はこう書いていたのです。「牧会者の霊的分野におけるSOSは召命感の欠如、救いの不明確さ、神との交わりの希薄さにある」と。

 はたして、そんなことが、ありうるのでしょうか。

 自分は神の声を聞き、立てられて牧師へとなっていった――そんな意識がなく牧師になった人がいるというのです。

 イエス・キリストの救いを伝え説教する牧師が、自分が救われたという思いがないままであることがある、というのです。

 祈りましょうと告げる牧師が、神と交わることができていない、ともあります。

 はたして、そんなことが、ありうるのでしょうか。

 

 私も実は、少し前まで、そんなふうに考えていました。

 話には、聞きます。カトリックの神父が、実は自分は神を信じていない、と言った、などというエピソードを。それでもなお神父を続けていけるというのは、何か深いところで、霊的な強い闘いをしているからであろう、と私は考えました。逆に、信じていないのだ、と言えるというのは、深いところで神と交わっているからに違いない、などとも思えたのです。

 

 しかし、まさか身近にそういうことを見ようとは、思いも及びませんでした。まさに、「まさかわが子が」といった心境でした。

 ともかく、現実に見てから、私は、深く考え込んでしまいました。そこから語られる言葉は、いのちのない上っ面のものに過ぎないとなれば、自分は耐えられない、と。いくら何を伝えようとしても、肝腎の救いの根本がないのであれば、無理な話です。そんな人が、聖書から話をしようとしても、それは聖書から流れる話であることはできません。聖書は、誰でも聖書の言葉を引いて話をすればいのちが与えられる、といったものではないのです。聖霊が豊かにいのちのことばを伝えるというのは、まさに救われていのちを受けた人からしか語られないことなのであって、そうでなければ、聖書の説明や聖書の思想は語れても、福音は語れません。

 

 イザヤやエレミヤの例がそうですが、神によって立てられる器というのは、神の前に無力なままで、神から引きずり出されて立てられていくのが普通です。ヨナのように、暴力的に引きずられてそうなる人もいるかもしれません。

 ともかく、召命といって、神の声を聞き、おまえが立つのだ、御言葉を伝えるのだ、という声を聞くことなしには、牧師として立てられることはありえない――私はそう考えていました。

 

 しかし、そういうこととは関係なしに、牧師や伝道師を生産する教派もあるのだと改めて知りました。救いも召命も不確かなままに、牧師なり伝道師なりの地位に、簡単になれるところがあるのです。ひどい場合には、神学部に少しばかり通えばそうなる、などということもあります。もちろん、通った年月は問題ではありません。個人的に神を体験し、召命をもらっている場合には全く関係がないのですが、そうした体験がなくても、ちょっと通えば簡単に地位に就くというふうになるわけで、そうなると、もう偉そうに語るその御言葉が、へんてこであっても、とにかく説教であるというふうになっていきます。ですがそれは、神の言葉でも何でもなく、まさに擬装と言われても仕方がないものです。世でどんどん露わになっている擬装が、教会でもなされているとなると、これは一大事なのですが、この場合厄介なのは、本人はそれが擬装だとは気がつかない点です。

 信徒からすれば、下手な歌を聴かせられる聴衆のようなものです。ジャイアンの自己陶酔の歌を我慢して聴くスネ夫やのび太のような気持ちと同様です。

 

 これでは、いくら改善を待っても、どうしようもありません。

 かのセンターでは、「今後も継続的に牧師・宣教従事者を支援するプログラムを提供していく」としていますが、そもそも救いも召命もなしに牧師になったとすれば、これはプログラム云々では、どうしようもない問題です。生物学も医学も知らない者が医者になってしまったようなものです。患者には、つまり信徒には、たまりません。

 

 しかし、中には、救いも召命も確かであるけれども、どうにも人間的なトラブルや問題が絶えなくて辛い、というケースも、当然あるわけです。

 これには、なんとかして助けを出さなければなりません。救いや召命が確実であるならば、あとは祈りと知恵によって、切り抜ける方策が必ずあるからです。それは神からももたらされることでしょうが、まわりの信徒の実際の助けも必要な場合が多いでしょう。

 かのプログラムは、そうしたレベルのトラブルに対して、力を発揮することでしょう。また、発揮してもらいたいと願います。それは、主の与えた霊の中での話なのです。

 

 牧師とは、ほんとうに大変な仕事だと感じます。

 それでも、あれもこれもと参与して頭を抱え息を切らしている牧師のために一言考えますと、どうやら、使徒言行録の知恵が活かされていない印象があります。

 使徒たちは言います。「わたしたちが、神の言葉をないがしろにして、食事の世話をするのは好ましくない。それで、兄弟たち、あなたがたの中から、“霊”と知恵に満ちた評判の良い人を七人選びなさい。彼らにその仕事を任せよう。わたしたちは、祈りと御言葉の奉仕に専念することにします」(使徒6:2-4)

 牧師ひとりで抱え込まないようにしましょう。いわゆる執事などに、任せればよいのです。そうして、必要外の牧師への傾きをなくし、神の知恵を照らし合わせるブレインとして、牧師には祈ってもらえばよいのではないでしょうか。

 


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