日曜日は本当に安息日か

2007年2月

 日曜日は安息日。牧師は、日曜日を礼拝にささげ、仕事をしないことを勧めます。家族の交わり、同じ信仰を抱く兄弟姉妹の交わりを尊び、本来の自分を取り戻す休息である、と。

 

 ところが日本の教会は、小規模の教会が多く、そうした教会では、幾つもの役職を兼ねた信徒が、日曜日は朝早くから夕方まで奉仕に勤しんでいます。日曜日だけの休みである仕事の人は、その休みを、疲れ果てて過ごすことになりかねません。

 大きな教会でもまた、様々なイベントがあると同様です。イベントがあることがサービスだというふうな感じで、教会では様々な企画が組まれ、それに出席するように求められます。

 

 それだけではありません。当の牧師。

 日曜日こそ、牧師が牧師である所以のような時です。説教を考えるために、土曜日には家に缶詰で家族とも口を利かない、という牧師もいるとか。そうして日曜日は、早朝から、どうかすると夜の集会まで、牧師は休みなく働きます。

 

 そう。牧師は、日曜日に働きます。

 実に皮肉なことです。日曜日に休みなさい、という説教をするのが、牧師の仕事であり、その仕事を日曜日にしているわけです。

 牧師給与がある報酬であるとすると、まさに日曜日の仕事に対して支払われているようなもので、日曜日にこそ仕事をしているのが牧師である、と見ることもできるでしょう。

 

 もちろん、それは世間の仕事とは訳が違う、と言われるでしょう。仕事ではなくて、まさに奉仕であり、サービスなのだ、と。

 信仰的に、そのように捉えることは、もちろん存じております。

 しかし、敢えて、第三者の目に映る教会の姿というのは、どうでしょう。決して、余暇を過ごすレクリエーションというふうではなく、まさに日曜日こそ、忙しくたちまわり汗水垂らしているような姿を呈しているのではないでしょうか。まさにその牧師こそ、日曜日に仕事をしている、というふうに見える、それが自然ではないでしょうか。

 

 さらに、複数の教会を兼任しているとか、ラジオや講演など各方面で活躍している牧師は、日曜日のほかにも、フリーな時が見当たらないほど。休みなく飛び回っているということをむしろ誇らしげに紹介する牧師もあるようです。

 

 しかし、神は「休め」と言われたのです。

 牧師が休みなく走り回って聖書を説いているとするならば、それはまさに自己矛盾とならないでしょうか。

 少なくとも、第三者の目から見れば、まさに矛盾としか言いようがありません。

 

 日曜日に授業参観や運動会が学校で行われることに、抗議する牧師もいました。

 ですが、現今の教会が日曜日に動いている有様は、その学校行事のことをとやかく言うことができるものではないかのように見えます。

 

 それはおまえが正しく教会を理解していないからだ。

 おまえの信仰が至らないからだ。

 そんなふうに、私に言うだけなら、もはや教会の病巣は深く、治りがたいものとなっているかもしれません。傍目には、たぶん間違いなく、上のように見えるからです。

 教会は、自分たちは神に選ばれたと信じて、世の中の動きから遊離していることをどこか優越しているかのように捉えており、時に世の中を批判したり見下したりするようなことがある一方、自分たちが批判していることとまさに同じことを自分たちがやっているということにさえ、気がつかないでいる……。

 

 これでは、ますますキリスト教会は、いい気なものだというエリート意識の塊でしかなくなります。こうした印象を助長するようなままでは、伝道どころではありません。

 

 日曜日に教会に集う家族が、結局ばらばらで奉仕に忙しく朝から晩まで走り回っている姿は、何のために日曜日を「休み」だと言っているか、分からなくさせるものではないでしょうか。家族を大切にしているという姿が示されているでしょうか。

 日曜日が終わるときに、「ああ、疲れた」という言葉が漏れるようなあり方が、安息日だと言えるのでしょうか。

 

 事務上、さまざまな制約や必要な話し合いなどがあることは分かっています。ですが、それならそれで、会議は今から一時間で終了するとか、予め十分検討してきてもらった上で顔を合わせて、その場では疑問の解決と意志決定に努めてすぐに会議を終えるとか、そんな工夫を本気でするつもりが、あるでしょうか。

 

 とくに牧師は、自分が日曜日が仕事であるという無意識の思いのために、日曜日にこそたくさんのことをしなければ、と走り回りがちです。その際、週の6日を朝から晩まで世の辛い仕事に追い立てられて日曜日にようやく安息を求めて教会に足を運ぶ信徒を従えるとなると、休みたいという信徒との間の意識のずれは悲劇的なほどです。

 その信徒は、日曜日に最高に疲れた一日を過ごした末に、また信仰の「し」の字もない職場に戻ることになります。牧師が、信仰を共にする信徒たちと、有意義な一日をたっぷり過ごすことができた、と満足している一方で。

 

 日曜日を、本当の安息日にすることはできないものでしょうか。

 キリストだったら、この事態に、どんな言葉を発することでしょうか。聖書の中の、どこかの言葉を、ぶつけてきそうだという想像力を、私たちはもつことはできないでしょうか。

 ユダヤ人が、命を張ってまで、安息規定を守ろうとする様子を、クリスチャンはしばしば笑いものにしていると思います。こんな、あんな、変な規定があるのです、と口にするときに、心の中では、ユダヤ人の生真面目さをどこか嗤っているわけです。

 しかし、そのようにしてまでユダヤ人が安息日を守ろうとしているのは、人間が神から与えられた、休むべしという命令を、懸命に守ろうとしている忠実な姿だと見ることもできるはずです。ブレーキをかけて神の戒めを守る姿勢に対して、口先では「安息日を守りましょう」と言い、さらにそれを守っていると自分では確信している、上のような姿の教会の姿は、完全に偽善的であり、確信犯であると言うことはできないでしょうか。

 

 日曜日を、本当の安息日にすることはできないものでしょうか。




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