仲間の顔色をうかがうとき、排除の論理が働く

2003年11月


国立ハンセン病療養所「菊池恵楓園」に入所する元患者と職員ら22人が「ふるさと訪問事業」として宿泊を申し込んだ熊本県南小国町の黒川温泉のホテルから「他の客の迷惑になる」として拒否されていたことが18日、分かった。(毎日新聞2003年11月18日)

 
 報じられた発端は、こういう事実でした。ホテル側の理由は、次の通りでした。
 

県に対しホテルは「当日は乳幼児が宿泊予定なので心配」と話したという。県は感染の可能性がないことを再三説明。同温泉の旅館やホテルでつくる黒川温泉観光旅館協同組合も説得したが、今月13日に支配人から「他の客の迷惑になるので宿泊を遠慮してほしい」との返事があった。(毎日新聞2003年11月18日)
 
同ホテルの前田篤子総支配人の話「県は、予約の時点では元患者と明かさなかった。社会から差別が完全になくなったとは思えず、客商売だから断った。判断を間違ったとは思っていない」(讀賣新聞2003年11月18日)
 
会見で同ホテルの前田篤子総支配人は「感染するしないの問題はわれわれは実際分からないが、社会一般に広く受け入れる認識や体制が整っていない状況で、サービス業を営む当ホテルとして受け入れることはできない」と語った。(共同通信2003年11月18日)

ハンセン病について理解が進まない現状では、他のお客さまに不快な思いをさせると思い、お断りした。県や旅館組合などから説得を受け、本社とも相談したが、最終的には責任者の自分が判断した。(熊本日日新聞2003年11月18日)


ライン 教会 ライン

 ハンセン病についての差別の歴史については、ここで述べるよりも、皆様の方がご存知でしょうし、今回の事件の背景としても伝えられています。どうぞ理解のために、一度検索その他で改めて事態を確認し、ご理解を戴きたいと願います。
 この問題は、差別と偏見が根強いことを教えてくれましたが、ここでは少し視点を変えて事態を捉えてみたいと思います。
 それは、このホテルの支配人がこんな愚かな判断をしたのか、という点です。
 おそらく「差別してやろう」という意図はなかったでしょう。「偏見からこうするのだ」と考えはしなかったでしょう。アクションヒーロー番組ではないのですから、「私は悪の帝王だ」などと自称して行動する者は、ふつういません。
 強調してよいと思いますが、支配人は、自分では差別もしていないし、偏見をもっているわけでもない、と自認しているに違いないのです。差別とか偏見とかいう問題は、相手が嫌いだから、相手が憎いと思うから、わざとすることです。この支配人は、そういう意識で拒否したのではありません。「他の客の迷惑になるので」という、ホテルの支配人としては正当な理由を根拠にして、ハンセン病の元患者の宿泊を拒否したのです。

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 しかし、当の客が迷惑だと言ったわけではありません。そう、予想したのです。当の客が不快に感じた事実があるわけではありません。そのように思いやったのです。
 そう考える根拠の一つとして、支配人は、「社会一般に広く受け入れる認識や体制が整っていない」と言っています。もしかすると社会一般は受け入れているかもしれないのに、支配人自身は、受け入れられていない、と判断したのです。
 熊本県や黒川温泉観光旅館協同組合は、何度も説得に向かっています。しかし、会社の方針あるいは自分の判断だと言って、支配人は、自らの姿勢を変えようとせず、自分の説を守ろうとしました。そして、ようやく翌日になって、問題がひどく大きなことであることに気づいて、謝罪へ行動することになりました。ただし、その謝罪には誠意が感じられないとして、元患者たちは、まったく受け入れることがありませんでした。
 2001年05月23日に小泉首相が、ハンセン病訴訟に敗れた国側として控訴を断念するという異例の決断をして、やっと救済策が具体的に始まることになりました。彼らが命を懸けて、病気、いや一番の苦悩は差別と偏見なのですが、それらと戦ってきた歴史がありました。今回の自分の「判断」が、それを一蹴し、踏みにじるものであったことに、気づくことのなかった支配人のたどる、当然の道でした。法務省も告発に向かっており、今後事態は一方的に進むことでしょう。

ライン 教会 ライン

 どうして、こんなことになってしまったのでしょうか。
 この支配人がこうまで危険を冒して、守ろうとしたものは、何だったのでしょうか。
 それは、「他の客」でした。実際何の要求もしていないわけですが、ハンセン病の元患者が同じホテルにいると知ると、文句を言うかもしれない、「他の客」でした。
 
 キリスト教会には、このハンセン病について、一つの責任を負っています。
 旧くは「らい病」と呼ばれたこの病気の名は、聖書の中でイスラエルがひどく恐れ、また神により与えられた罰として描かれてきた皮膚病のことでした。たしかに現在の聖書では、そのような呼び名は使われていません。しかし、長い間らい病を神の罰として講壇から教えていたという責任は、やはり免れることはできないと思います。いえ、もっと積極的に負わなければなりません。
 痛みを感じます。このホテルの支配人だけが問題ではなくて、この状況を作ってきたのが、ほかならぬ聖書を伝える人々だったというわけですから。
 当時、教会はどう考えていたのでしょうか。その病気で苦しむ人々のことを。
 熱心な人ほど、「あれは神の与えた罰だ」と考えたかもしれません。優しい人でも、気の毒に思いながらも、離れた距離から、自分とは関係のない人々だという目で見ていたのかもしれません。
 もし、その病気の人が教会に来るとしたら?
「感染するので遠慮してもらいたい」と、言わなかったでしょうか。「ほかの信徒たちが迷惑するので」と。
 まだ全員から意見を訊いたわけでなくても、牧師なり神父なりが、信徒の気持ちを配慮して、「小さな子も来ますから」と断らなかったと言えるでしょうか。

ライン 教会 ライン

 ハンセン病という特定の場合にのみ、こうした反省が活かされるわけではありません。意外な人を迎える段階で、互いに人の心を思いやっているかのようにしながら、その「人」というのが、たんなる「仲間」でしかなく、外の人々を排除するための論理を持ち出すようなことは、幾らでも行われているような気がします。
 人の顔色を見て態度をころころ変えることについての警告を、何度か私もしていますが、このホテルの支配人の姿は、仲間という意味の「人」の顔色を窺って、仲間でない人々の心を踏みにじる姿として、必ずしも珍しいことではない、と捉えなければならないと思うのです。教会の中でも。
 仲間の顔色ばかり窺うときに、多くの人の顔が見えなくなります。偏見や差別といった現象は、そのようなところから生じるものです。
 教会の外に、今救いを求めて門を潜ろうとする魂があるでしょう。自分では気づかなくても、何か正しいものを欲してさまよっている魂もあるでしょう。教会の中の統率も大切ですが、残念ながら教会は仲良しサークルではありません。仲間の機嫌をとることばかり考えていると、誰かの血と汗にまみれた真心を踏みにじっていることに気づかないでいるかもしれません。


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