あらゆる教会に

2019年1月28日

聖書の解釈から、歴史の中で争いが多々ありました。争い、と言ってしまうのは簡単ですが、そのために数えきれない人の命が奪われ、憎しみの渦が起こり、多くの人の運命を変えました。
 
いまこの日本で、聖書の解釈の問題でいがみ合う理由は、何でしょうか。
 
そもそも、そんなことに関してとやかく言い合っている姿自体が、浮いているというか、バカなことをしているとしか見られていないのではないかと感じます。あまり具体的に言うのもよくありませんが、芸能人のファンどうしが、あの歌手の声がステキ、いや顔がいいんだ、とケンカしているとしたら、ファンでもない人から見れば、アホくさいと思うであろうのと同様です。
 
これは良いニュースだから、知らせなさい。
 
分かりやすく言うならば、キリストはこれを弟子たちに託しました。あるいは、命じました。パウロはあれほど、その弟子たちたる者たちの集まりに、小うるさく苦言を呈し、キリストを見よと促しました。それは、キリストの指示したことが蔑ろにされていたからに違いありません。
 
いま、パウロたち書簡の書き手の苦言から、私たちは無縁なのでしょうか。とてもそうは思えません。だのに、えてして説教で語られる新約聖書は、そこにある批判を、過去のものとするか、よその教会に対するものとするか、そんなものではないでしょうか。語る者も、あなたがたはだめです、とは言いにくい事情があるでしょう。自分の牧会している教会がダメダメだとは言いたくないでしょう。そこへ、このパウロが嘆いている教会は、この私たちの教会です、とズバリ言い切る勇気が、欲しいのです。
 
もちろん、自虐的発言ばかりでは、気持ちが萎えるでしょうし、否定的な見解に包まれてしまいかねません。明るい前進、それもまた大切なことです。けれども、罪を知ることなくして救いがないように、自分たち人間を肯定することだけで、希望を抱くことはできないのです。自分たちの中で満ち足りているところに、神の恵みは注がれません。いま笑っているものは幸いではないというあたりの意味を噛みしめる機会が皆無であることはできないと考えるのです。
 
争いは、「自分が正しい」同士が対立するところに起こります。「自分は間違っている」だけでは卑屈になりましょうが、聖書とはそもそも、人間が間違っているということを覚らせる書だったのではないでしょうか。そこに暴露されている醜い人間の姿は、私の姿です。そこで嘆かれているのは、ほかでもない、自分の教会の姿です。仲良し倶楽部だけで充足するのでなく、「これでよし」と言い切ることのできない真実を前提として、上より注がれる光に照らされるという順序が、私たち人間の世界の姿であると弁えた中で、喜んでいたいと思うのです。
 
そうでないと、いくら、良いニュースですよ、などと伝えても、欺瞞に満ちた偽物であるということを、ひとは容易に見抜きます。伝わらないのは、教会が偽善者だと見透かされている故なのかもしれないのです。
 
わたしはアポロに、パウロに、キリストに……それは他の教会、他の信徒のことであって自分とは無縁だ、という態度の中には、いのちがない。パウロは、「あらゆる教会」に心配事があると言っているのです。でも、こうしたことを零したら、私は「健全な」教会から、弾かれてしまうのでしょうか。



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