子どもに聖書を語れない?

2018年11月7日

先日、聖書教案誌のことが話題に出ました。教会の団体がまとめていて、できれば教団全体で、聖書の同じ箇所を味わいたいとするために、カリキュラムを組んで、礼拝説教や教会学校の内容を揃え、それについての解説などを施した教案誌というものがあるわけです。
 
信徒が読む聖書箇所などと共に、いわば他人が決めるわけですから、これを嫌う人もいますが、逆にそれを示されたものとして受け止める人もいます。ただ、教会学校は牧師や伝道師でなく、一般信徒が担当することが多いとすると、こうしたカリキュラムはありがたいので、学びのためにもこれを使う価値は十分にあると思われます。
 
話題は、どうやその教会学校で使う場合のことに向かっていきました。「残酷なシーンが紹介されていて、子どもに語れない」という問題でした。
 
とくに旧約聖書には、人を殺すシーンがずばりと描かれていて、小さな子どもにそれを話すというのは大人として抵抗があるものでしょう。姦淫の話など、子どもに向けてどうかという点もあります。尤も、近年は親の話さえ難しい場合があります。離婚した家庭の子はもちろんのこと、父母を敬えという十戒ですら、親に虐待を受けた子がどう聞くか、配慮が必要だとも考えられます。そのときには「天のお父さま」が残酷な響きにすらなるかもしれません。
 
しかしまた、人を殺すシーンを語るということも、避けるのが常にベストかどうかは分からないというのが、私の感想です。
 
そもそもおとぎ話・昔話は残酷なものがしばしばです。一時、おとなの世界で流行りました、「本当は怖い○○○」というような本。実際原典はひどく残酷な描き方をしているものが多々あります。時代的な背景もさることながら、地獄を語ることこそ救いをもたらすという方針すら古今東西あるわけですから、積極的に残酷な場面を語り伝えていることもあるわけです。
 
もちろん、幼気なわが子、わが孫に、わざわざ残酷なことを語ってトラウマにでもなったらどうしよう、という心配は理解できますから、なにも杓子定規に決めよなどと言っているわけではありません。
 
しかしその心理が、いまの(失礼な言い方ですが)質の悪いいかにも商業的な絵本の内容を奇妙なものにしているのも事実です。さんざん悪いことをしてきた動物を皆で許し、最後に動物たちが仲良しに戻る大団円。おばあさんが殺された話も怪我だけで通りすぎていく。物語のもつ教訓も驚きも皆どこかへ隠され、最後には予定調和的に丸く収まることで解決されてしまうように改竄されているものが多数あります。これをアメリカナイズした形で成功した例がディズニーでありましょう。しかし絵本の原作を愛する人から見れば、ディズニーによる物語の変更は許し難いというケースもあるようで、商業的なものと精神的・芸術的なものとはまた違うという恰好の例となりうるものと思われます。確かにまた、子どもの心には予定調和の優しさこそが相応しい、という理論もあるかもしれませんが、えてして大人が語りたくない、へたに語って問題とされたくない、という心理を感じてしまうのですが、どうなのでしょう。
 
これも一時のことだとは思いますが、運動会で優劣がついてはいけないから、早い子はゴール手前で遅い子を待ち、皆で仲良く手をつないで同時にゴールする、などという教育現場も指摘され、それは親たちの要求であったと思われますが、さすがにこれに対しては世間から疑問が多く湧いていました。しかし劇で役回りが異なるといじめになるとか親が反対するとか分かりませんが、皆がかわるがわるお姫様になったりヒーローになったりということもあったらしく、平等の言葉がそんな独り歩きをしていたとも見られます。
 
物語を常に平和に収めようとする心理とこうした傾向は、別物ではないような気がします。残酷なシーンは子どもが傷つくから、話せない。果たしてそれでよいのかどうか。それしかないのか。わざわざ酷いことを教える必要はない、というのはまた、もしかすると、子どもの心に深く傷を残すことを自分がしたくはない、というだけの話なのかもしれません。自分が責任を負いたくない、という大人の論理であるかどうか、私たちは自分に問い直す必要があるのではないかと思うのです。
 
そうでなくても、教会の説教で、牧師は「罪」を語らなくなってきています。このことは何もいまに始まったことではなく、半世紀前の説教集でも嘆かれているし、もっと古いものにも恐らくあろうかと思います。が、近年また激しく、「罪」なしで「そのままでいい」の強調が進んでいるようにも見受けられます。時代が変わった、という考えもあるでしょうが、福音とは何であったのか、果たしてそこは変わるべきところであったのかどうか、私たちは自分に問い直す必要があるのではないでしょうか。
 
そう、「罪」を語れば人が去る。若い人が寄ってこない。信徒も不愉快になる。必ずしもそれは杞憂ではないと思われます。牧師がたとえそうじゃないぞと罪を語れば、教会の役員たちが、それでは困るなどと文句を言う、そんな図式もどこかにあるかもしれません。教会経営を考えての措置なのでしょうか。もちろん、それは世界的な現象だとも言えるのでしょうけれども。
 
語り方が提言されていく必要はあるでしょうが、内容を避けて変える必要はなく、聖書にあることは語る、という姿勢を保って戴きたいと私は願います。確かに子どもに向けて、敵将の頭に釘を刺したとか、体を切り分けて部族に送ったとかいう話をあまりにリアルに説明する必要はないかもしれません。しかし、民族の危機に対して女性が勇気を出して行動を起こしたことや、世の悪を仲間に知らせたことを隠す必要はないでしょう。姦淫を罪とする話でも、家庭を壊すようなことを人々がよしとしなかったことを教えることがまずいようには思えません。ただ、外国人の妻を追い出せなどという場面をわざわざ得意げに話す必要もないわけで、そういう意味では聖書の文化を私たちもよく学んでいく必要を覚えます。
 
問題は、それを一律このように語ればよい、語ってはんならない、とマニュアル化することではなくて、その場にいる子どもと教師との関係の中で語る、ということが第一ではないかと考えます。教案誌にあるそのままの表現や内容でなくてもいい、自分の受け持つ子どもの顔を見て、その子の置かれた環境や状況、その日の様子などをすべて含み知った上で、その子の目を見ながら、関係を築きながら、保ちながら、その子の魂に語りかける言葉を探すしかないのではないかと思います。教案誌をただのプログラムやマニュアルとして利用することしか考えないのではなく、それはひとつの素材として使いながらも、その日のお客さまの好みや求め、また気温や湿気などの環境にあわせて味付け調理をする料理人のように、目の前の人格にどう自分という人格が語り、言葉によって関係を築き、結びつこうとするか、そこが肝腎なのではないかと私は理解しているのです。
 
少ない子どもたちを前にしてきた私だからそのように思うのかもしれませんが、たとえ多くても、子どもたち自身が互いに助け合ったり慰め合ったりもします。語るべきことは語り、あとは子どもたちの受けとめ方に委ね、神のはからいに委ねること。子どもたちの想像力は大人が思うよりもずっと広く、豊かであるという信頼を胸に、今日も明日も教会学校教師たちが、御言葉を語り続けること、また周囲もそれを理解して支援していくこと、親は親で子どもに対して必要なフォローをしていくこと、そんなつながりができていくことを望んで止みません。



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