救済体験

2018年10月12日

先般ご紹介した雑誌「宗教問題」は、日本のキリスト教の暗闇を特集した、若干煽り気味な見出しが目立ちましたが、その中の地味な記事として、本の著者にその本への意気込みを交えて紹介してもらうというコーナーがありました。
 
「信心のありがたさ」と題して、相愛大学名誉教授の紅楳英顕氏へのインタビューが掲載されていました。『親鸞聖人の念仏論』を出版したことの宣伝でもありますが、そこで訴えたかったことを声を大にして語ったというものとなっていました。
 
著者によると、近年、阿弥陀如来の慈悲を強調するあまり、何もせずとも極楽往生するのだ、という声が高まっているのだそうです。他力ということを押し進めると、確かにそうなる可能性はあるでしょう。そこで、いついつこのようにして自分は信仰に目覚めた、という明確な救いの「時」がなければならない、というケースにあてはまらない、徐々にいつの間にか信仰に目覚めたということも当然あるのだから、「信心の定まるとき」を強調するのは行き過ぎだ、と言われるようになってきたというのです。
 
けれどもそれでは、信心があってもなくてもよいということになってしまいます。著者は、信心の大切さを改めて訴えたい、ということのようでした。そのとき、かの最近の風潮の理由として、「現代の浄土真宗僧侶に"救済体験"がない」ことを挙げているのが印象的でした。何となく寺に生まれて僧侶になっていくことの多い現状に、浄土真宗は「信なき教団」となり、信心など不要だということまで公言されるようになっていることを嘆いているのです。
 
そもそもそのような救いの体験をした人が少ないかもしれないし、またそういう体験を公言することが難しい空気さえある、と著者はインタビューで応えていました。著者が信心を得たと話をすると、「それは異安心(異端)ではないか」とまで幾度となく批判されたのだそうです。
 
さて、このことはキリスト教世界にも重なる部分があるように私には思えたのですが、如何でしょうか。



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