聖書のテクスト

2018年5月19日

ここで「テクスト」と呼ぶのは、私たちが共通して何かの情報をそこから得る知的な、ここでは文字や文章による資料のことです。また、聖書は翻訳という宿命を背負い、翻訳された聖書とは何かという問題もありますが、今回その点には触れることをせずに考えていくことにします。
 
その集まりで配付された資料は、ある人の著作の中のひとつの考察文章でした。学問的な内容ではありますが、厳密な論文ではなく、語りつつ論じるような雰囲気がありました。それを共に読もうとするのですが、どうやらそこに、文章を理解する上で困難があるらしく、文章の一部をこのように訂正して読んでください、とのアナウンスがありました。なるほど、原文は確かに分かりにくい文章です。ある箇所を消して主語を示す句を置き換えると、意味が通りやすくなったように見えます。
 
しかし、主語の省略は日本語にはありがちなことであるし、自然と私たちも補って読む習慣ができているので、私から見ると、確かにその主語があるほうが分かりやすいけれども、なくても読むのが困難とまではいかないように見えました。むしろ、消された部分は、消さずに残して然るべきではないか、というふうにも思えました。もちろん、元の文章では、主語と述語がえらく離れ、その中に節構造が絡み混んでくるので、悪文と言われても仕方がないようなものではありました。が、消された部分そのものは、誤りではありませんでした。ですから、主語句を、ただ補えば、最も相応しい修正となったのではなかったかと思えました。
 
何を言いたいのかというと、ここで実は面白いことが行われていたということです。資料として読み上げて皆で考えていこうとするときに、原文を訂正した。テクストを、書いた人のいないところで変えた。これは、聖書本文の研究において、写本の相違という問題を扱うときに、考慮するべき事柄を、いま現代の自分たちが演じていた、というわけなのです。これは間違いだろうと修正する。聖書の文章にもそれはあったのです。しかしまた、その修正が、なくもがなの修正であったり、一定の解釈を加えたが故に補ったり削ったり、順序を変えたりという営みであったのです。
 
このとき、もし修正が適切であったとすれば、原文はよくなかったことになります。校正したことで、出来はよくなるわけです。聖書本文を調べる場合、原文は何かということを躍起になって調べるのが通例であるのですが、それは、最も優れたものが原文であるということで調べているのではないはずです。もちろん、修正が原文の意図を誤解してのものである場合もあるでしょうし、修正の側が間違っているというケースもありうるでしょう。後の時代のほうが優れていたり、劣っていたり、ケースバイケースになるとの予想です。元来、本人による改訂版というのは、後の時代のものほど、修正を含めより良いものとなっていくとさえ理解されています。もし聖書の真の著者が神であると考えるならば、このように、改訂版のほうを重んじるという論理さえ成立するかもしれません。
 
ここで問題になるのは、聖書は神の言葉である、というテーゼを掲げる信仰者です。とくに新約聖書は様々な写本が存在する以上、いったいどれが神の言葉であるのでしょうか。どれかは違うのでしょうか。その判断は何に基づくものでしょうか。すると、テクスト自体に、いわば客観的に神の言葉を求めるということが果たして適切かどうかさえ怪しくなってきます。
 
そこで、説教こそ、神の言葉であるのだ、という考え方をとる人も増えてきました。神の言葉は、数学の定理のように冷たくそこに定置されているものではなく、生きている人間に、その都度息を吹き込むはたらきを(聖霊が)なすと考えることもできるわけです。それは、個人的に聖書を読んでいて呼びかけられることもあるでしょうが、教会という共同体の中で語られる説教は、共に生きる弟子たちの生き方の中で共通にはたらきかける大切なメッセージでありましょうし、神の言葉が生き働いて現実の出来事となっていく場を形成する営みであるとも言えるでしょう。このように、説教を単純に神の言葉と思い込むような単純な思いつきではなく、これは深い洞察と実践に基づくものと思われますが、神の言葉として説教を聞くとき、それは聖書から外れているかもしれない、という疑いが当然ありましょう。牧師個人の思想ではないか、少なくともそれは混じっているのではないか、と。透明な、神の言葉がそこから次々と語られている、というわけではない、と。
 
確かに、聖書はただ朗読を聞いたり、輪読をしたりするだけで、涙が出るほど恵みを受ける、という経験は多くの人にもあるでしょう。よけいな解説はいらない、ただ聖書の言葉をシャワーのように浴びている中で、神の声を聞くという体験は、珍しいことではないと思われます。しかし、その聞いた聖書の言葉でさえ、翻訳です。誰かの解釈が入っています。また、オリジナルとされる原典も、無数の写本の異なる語の中から厳選されて、とりあえずこれをオリジナルとしようという話し合いの中で決められているに過ぎませんから、いったいどこでどれを神の言葉と見なすのかという点では、必ずしも決定的なものを私たちはもっているわけではないのです。
 
逆に、もしも聖書が、決定的な原典を有していて、他の可能性を許さないものであったとしましょう。しかも、その解釈は一義的で、他の理解を一切認めないことになっていたとしましょう。たとえば数学の定理のようなものです(いや、数学も解釈はあるのだ、という深いお話はここでは展開させないでください)。そのとき、何が起こるでしょう。――悪口を言うつもりではないのですが、福音書に描かれた律法学者たちはそれを求め、ファリサイ派はそれを実行することで幅を利かせていたということになりましょうか。彼らは、聖書を一意に定めようと努めていたのではないでしょうか。だから自分の理解が真実で、他の理解は嘘である、と言えたのでしょう。
 
これは現代でも、異端あるいは異端的と称されるグループに特徴的なひとつの傾向です。他の教会では救われない、とするからです。いえ、自らは正統的と称する中にも、実のところそのように振る舞っている場合はあるかと思います。しかし、ここで基底に置いているように、テクスト自体に曖昧さがつきまとうのが実情です。私たちキリスト者は、聖書のみと口にするときにも、実はひとつの聖書をもっているわけではありません。それでもなお、無秩序に何でも認めることもできず、その判断は極めて曖昧なものとなっています。
 
では、各自の思いのままとしか言いようがないのでしょうか。いま流行の「ダイバーシティ」という合い言葉を掲げて、何だってよいのだ、と紙一重のところにあるのが健全なのでしょうか。ある意味でそうでしょう。それしかないのだとも言えます。毒麦もそのままにしておかねばならないほどに、人の判断で刈り取ることは慎むようにと言われています。けれどもまた、「そのころイスラエルには王がなく、それぞれが自分の目に正しいとすることを行っていた」というのが褒め言葉でないことも事実です。
 
あれほどイエスから延々と説教されながらも、私たちは実際、「なすべきこと」が分かっていません。これでよい、と力強く歩むことは大切ですが、これだけが真理だ、と自己愛に支配されることは拙いし、かといって、みんなちがってみんないい、で終わるわけにもゆきません。そもそも聖書のテクスト自体が揺れているのであり、また、同じ言葉であっても、自分の聞く時や状態により、違って聞こえるのがまた不思議です。それがまた、聖書を一意的に定められないということのひとつの理由にもなるかと思われます。
 
その都度、神の声を聞く。聖書の意味はひとつに決まらない。いまここにいる私に適した理解を、神は与えてくださる。自分にとっての真理は、確かにある。ただ、それを他人に押しつけない。他人を巻き込まない。ひとの学びに耳を傾けることは続けながらも、自分に与えられた自分の歩みの存在は信頼している。このようなことしかできない身は、自分と神とが一対一で差し向かいになっているときにこそ可能です。草は枯れ、花はしおれてしまうけれども、その都度投げかけられ呼んでくる主の言葉は滅びない。だから、私の見出したものだけがすべてだなどと勧めるつもりはありませんが、その道が続いている先を指し示すことはできるのではないかと思っています。小さな道標として。



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