占星術

2018年1月21日

「マギ」と説明されることがあっても、もちろん、『週刊少年サンデー』に連載されていたマンガの話ではありません。単数形はマゴス、複数形がマゴイで、マタイによる福音書2章に登場する、いわゆる「博士」または「賢者」です。英語では単数形がMagus(メイガス)、複数形がMagi(メイジャイ)となります。恐らく古代ペルシャ語に由来し、ラテン語のmagiあたりから英語のmagicへと流れていくことになったのではないかと思われます。磁石magnetもこれと関係があるようです。
 
日本語だと占星術の学者や博士とされています。本文中では複数形が使われていますから、一人ではないという設定ですが、三人だというのは聖書からは分からないことです。贈り物が三つありましたから、三人だという伝説が生まれました。東の国は、遠くペルシャを指すのか、ヨルダン川の東程度であるのかすら定かではありませんが、贈り物からすると、アラビア半島のどこかである可能性を思わせます。
 
新共同訳が「占星術の学者」としているところから、キリスト教徒であれば、旧新約共に拒む「占い」を営む者と見え、どうして神はそんな人を幼子イエスの誕生に関わらせたのかと訝しく思うかもしれません。「占星術」とくれば、世の人は気にするにしても、人間を12種類に限定して振り分け、それぞれに尤もらしい運勢を当てはめるだけの、怪しいものを思い描くのではないでしょうか。朝のテレビ番組でもこれなしでは終われないのですが、都合の良いときだけキリスト教に非科学的だと攻撃する人が、この運勢を毎日気にしているというケースがあるのかもしれません。
 
古代ギリシャのピュタゴラスにとっては、数学理論は、自らの宗教思想の説明となっていました。ニュートンは科学者として偉人扱いされていますが、錬金術あるいはオカルトにかまけてのことであった側面は否定できません。医学は古代では加持祈祷に頼ることもありました。こうした例が多々あるにしても、だから数学は宗教だ、とか、ニュートンの理論はたんなる信仰だ、とか評する人はいないでしょう。訳された「占星術」のイメージから、この博士が怪しい不審者だとする理由はない、ということをお伝えしたいのです。
 
星の観測をしていたのは事実だと思われます。いまでいう「天文学者」に近い存在だと理解するのが適切であるように思われます。星については、古代ギリシャで、今も残る星座が決められていますし、いわゆる星占いにしても、黄道十二星座は、太陽の年周運動と共にその太陽の背後にある星座という観点から定められているということは、かなり精密な観測がなされていた証拠だと言えます。
 
星は、夜の海路を決めるために必要な情報でした。日周運動はもちろんのこと、年周運動からも計算しなければ、時刻を決定することはできません。地動説が確定していなかったので、プトレマイオスの天動説(地球中心による天体の動きの説明)に権威がありました。そのために複雑な計算を要しましたが、エジプトのナイル川の氾濫の時期を知るために天体観測により暦を作る必要があったことは、学校の教科書でも知っておくように記されています。天体観測は、暦をつくるために大変難しい計算を必要としていました。
 
暦は、自然現象に対するためにも必要でしたが、王やその国の年代記を作るためにどうしても必要でした。王がその国土や人民ばかりでなく、「時」をも支配していることを内外に示すためにも、正確に記録しようとしましたし、王の名で時代を表現しました。これは、日本の年号の考えに今なお残っている考え方です。
 
少し古い(1982年)本ですが、『暦と占いの化学』(永田久著)という新潮選書があります。古代神話から暦についての計算方法などを踏まえ、こうした歴史を実に細かく説明しています。関心がおありの方は、古書として最低1円から出ていますので検索をかけてみてください。私はこの本で、一年が何日であるか、どうして第七の月という語が9月で第八の月が10月であるのか、などを知りました。月の日数がまちまちである歴史的背景や、現行の暦がどのような歴史を辿りながら決められたか、今後どうなるのか、などもよく分かりました。これを許に、いまもなお子どもたちに機会があれば話しています。なにも、科学的計算だけではなく、神話的背景についても詳しく書かれており、一冊の本でこれだけのことが分かるというのは実にお得なものだと思いました。
 
英語の占星術astrologyは、天文学astronomyとは、語尾が違うだけですが、前者の語尾はその語尾が「(科)学」を意味し、後者の語尾は「法」を表します。語の由来からしても、占星術というものが本来何もいかがわしいものではなかったということが分かると思います。
 
こういうわけで、新共同訳が「占星術の学者」としているのは誤解を招きやすく、むしろそれまでの「博士」のほうが、与える印象としては良かったのではないか、とも考えられます。それとも、もしかして、新共同訳聖書をお読みになっていたにも拘わらず、「博士」と書いてあると思っていらっしゃいましたか?



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