キリストを着る

2018年1月21日

「キリストを着る」という表現があります。心に残るフレーズです。これは、新約聖書のガラテヤ人への手紙にある表現です。
 
あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。
洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。
そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。
あなたがたは、もしキリストのものだとするなら、とりもなおさず、アブラハムの子孫であり、約束による相続人です。(ガラテヤ3:26-29)
 
また、ローマ人への手紙の中にも、同様の意味のフレーズがあります。
 
更に、あなたがたは今がどんな時であるかを知っています。あなたがたが眠りから覚めるべき時が既に来ています。今や、わたしたちが信仰に入ったころよりも、救いは近づいているからです。
夜は更け、日は近づいた。だから、闇の行いを脱ぎ捨てて光の武具を身に着けましょう。
日中を歩むように、品位をもって歩もうではありませんか。酒宴と酩酊、淫乱と好色、争いとねたみを捨て、
主イエス・キリストを身にまといなさい。欲望を満足させようとして、肉に心を用いてはなりません。(ローマ13:11-14)
 
ガラテヤ書では「キリストを着ている」とあり、ローマ書では「主イエス・キリストを身にまといなさい」とあります。日本語は変えてありますが、原文ではどちらも同じ語が使われています。
 
時々、神はありのままのあなたを受け容れてくださる、というメッセージを聞きます。それが間違っているとは思いません。けれども、旧い革袋のままで何もかもがよいということではありません。神は、私たちのすべてを肯定して何でもしてよい、と言っているわけではないのです。どうしようもない罪がしつこく根付いている点をごまかすことのないように。「にもかかわらず」、神はイエスの人としての命を犠牲にすることで、私たちに生まれ変わるチャンスを与えてくださいました。自分の中の罪、ぽっかりと空いた穴から目を離さないように。そこを覆い隠すのがキリストです。その穴を埋めるのが神の愛です。このイエス・キリストを着るという象徴的な生き方を私たちが始めることで、神はありのままの私たちを受け容れてくださるということになるのです。




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