魂の配慮と教会

2017年10月19日


牧会。英語の表現を日本語に置き換えると、こういう具合になるのでしょう。羊を飼うというニュアンスをもつからです。これがドイツ語だと、心を気遣うこと、一般的には「魂の配慮」と称されるものを意味します。つまり、「牧会」とは「魂の配慮」である、と。
 
羊を飼うとはいえ、羊にエサを与え運動をさせるというのが牧師の仕事ではありますまい。やがて肥った羊を食べようとか売ろうとか、そういう目的があるわけでもないでしょう。ペトロが復活のイエスに告げられた、羊を飼えという命令を受け継ぐとはいえ、牧師が迷える羊を囲いの中に集めたり、狼から守ったりするだけのイメージでは、牧師の職務の理解としては不十分過ぎましょう。
 
執事や役員は、その手の専門職ではないにしろ、それに準ずる役割を担うとも言えるでしょうか。もちろん、役員と言えばひたすら事務に徹する、という理解も当然あると思います。御言葉に使徒たちが徹するために、日常の生活面の世話をする担当を選び出したという、使徒言行録の記事を根拠にすると、役員は、いわば「汚れ役」を買って出る係ということになります。御言葉を説き明かす牧師が、金策に走ったり法的手続きに奔走したりしてばかりという図式を排除するために、この世的な事務を引き受ける役割を担うというのです。私もそのように理解していたことがありました。
 
しかし、これはその教会の規模や考え方にもよると思われます。新約聖書の後期の書簡になると特に、教会組織が整う中で、監督だの長老だの、どう訳してよいか分からないような地位が出てきて、教会の中で世話をする者のあるべき姿が描かれることが多くなります。ある意味で模範的な生活をする者ともされますが、魂の配慮へ関わる世話とも窺えるような気もします。
 
さて、皆さまの教会はどうでしょうか。案外、牧師がひたすら事務にばかり携わってはいないでしょうか。へたをするとそれはワンマンになる危険もありますが、他方、牧師が忙殺されていくことにもなりかねません。聖書の説き明かしや霊的な配慮とは関係のないところで、板挟みになったり失政を責められたりして、苦悩に陥るなどという場合もありうるでしょう。
 
教会組織もこの世の中での位置を持ちます。事務なしで、法的手続きなしで存在することはできません。しかしながら、役員会に出ておられる方、あるいは常会や定例会といった信徒参加の話し合いの場に出られる方、如何でしょうか。そこに「魂の配慮」があるでしょうか。いや、事務の場だからそんなものはいらないのだ、という意見もあるでしょう。何事も「信仰」などと言って片づけるわけにはゆかないのだ、との見解も尤もです。魂の配慮は牧師ひとりの職務であって、役員や信徒には責任がないし話題に上らせる必要はない、との考えもあるでしょうか。しかしながら、できることなら、この世の組織ではないという意味を担う、呼び出された者たちのつながりとしてのエクレシアが、何よりも大切な魂を神の国の住人に相応しい者への育んでいくような営みの場であることをも、大いに話題にしていくことが望ましくないでしょうか。いつの間にか、一般企業やイベント企画の会議だけであるような役員会が当たり前だと思い込んでいる危険はないでしょうか。
 
教会に、朝から夕までいる。時に他の曜日にも集まって話し合いをする。その場で、信仰の話が出ていますか。証しを聞く機会がありますか。聖書のことについて語り合い、励まし合ったり、祈り合ったりする時間があるでしょうか。何より、祈りがない集まりが、教会に相応しいはずがありません。
 
信仰の話が出ず、魂の配慮のない会議が続くとき、実は信仰のない人間が、少しばかりの事務の知識や声の大きさのために組織のリーダーとなっていき、教会を破壊していくということが、現実に起こります。そこにいくらかでも信仰の語り合いがあるならば、魂の配慮がその場に流れているとき、そうした者が幅を利かせる危険性を回避することができたのに、と惜しまれるものです。
 
組織の運営と能率や利得を第一義にしていくとき、弱い人、傷ついた人、助けを求めている人が見えなくなります。そのとき、キリストはその場を離れてしまいます。その小さな人がキリストでもあるのに、それに構わず切り捨てていくことになるからです。日曜日のその時間、あらん限りの勇気を振り絞って教会を訪ねる決心をした人が、教会堂に足を踏み入れることができ、心救われる応対に出会う、そのための準備が、いつでもできているでしょうか。少なくとも礼拝をしているという時刻に、開いていたり閉まっていたり、そんな教会があったりしたら、魂を排除していると言われても、仕方がないものではないでしょうか。私は、初めて教会に行ったとき、人生を懸ける思いで訪ねました。そして、ここは喜びのある処だ、と感じることができました。そこにいる人々が、何を大切にしているかということは、外から突如そこに入った人には、ちゃんと感じられるものなのです。人が自分の臭いは感じませんが、他人からはたちまちそれが感じられるのと同じように


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