愛と信頼

2017年10月8日


礼拝後、若者たちの輪の中に入り、聖書の学びのひととき。次週の聖書箇所を開き、とくに解決を求めるでもなく、疑問点を出し合い、意見を言うというような構成がふだんですが、今日はいつもと違いました。
 
雅歌。
 
これは手強い。解釈や理解について世界中でも定説がない上に、どうしてこれが聖書にあるのかさえ怪しいと歴史的に議論されてきた書です。また、聖書から「ありがたい」神の教えを聞くことになれている正統的なクリスチャンからすれば、何をどう読めばよいのか皆目分からないという事態も想像される書です。
 
少しでもアプローチしやすいように、リードさせてもらいました。その中で印象的だったところからまずひとつ。留学生の男性青年が、実に鋭い観点と、感性を見せてくれたことです。ふだんから真面目な話をしてくれる人ですが、直に聖書を題材にして語るとき、その人の信仰や聖書の読み方が伝わってくるものです。文句なしに、神の霊を体験している捉え方だと思いました。私もはっとさせられ、気づかされるようなことを指摘してくれ、またそれはその通りだと思いました。初めてこの集いに参加してくれたのですが、その発言は積極的で、非常にすばらしいものでした。
 
妻は、この学びの場でも手話通訳を担当していました。通訳をしているときには、自分を空にして、言葉をつなぐ管になることに徹しているものですから、咄嗟に意見を求められても、考えが回りません。そこで後から、こういうことが言いたかったのだという内容を聞かせてもらいました。
 
そのひとつ。私が振って、どこか恋バナになっていった中で、進行役(既婚者)から、こんな考えが出されました。夫婦の愛というものと、神さまとの愛というものとを、全然別のものと区別するのではないような気がする、と。但し、それがどんな点でどうなのかということは、うまく言葉で表現できないものでした。そのとき、私の妻が、もし頭が回っていたら発言したかったことは、こういうことでした。もし恋人との間だったら、こんなことを言ったら嫌われるかしら、と言えないようなことがあるけれど、夫婦になると、いわば恥ずかしいことでも何でも言える。それは、夫婦間に「信頼」があるからではないか。それはつまり、神さまに対して何でも祈り告白するという信頼関係と通じるものがあるような気がする、というのです。夫婦である時間が長くなると特に、自分の親や親友よりも、ずっと心おきなく話せるもの。それは、自分だけが相手を信頼しているからではなく、相手も自分に信頼をおいてくれている、って思えるから、そうなのだ、と。
 
もうひとつ。雅歌の中で、恋人に呼びかけて、「さあ、立って、出ておいで」というフレーズから、私は、「立つ」という表現が行動を起こすことを含んでいるから、新約でも聖書を読むときに、この語がよく出てくるので注目してください、というようなことを言いました。そのことに関して、妻は言葉にできなかったけれども実は感じていたのです。「立って」という言葉は、人間が自分で立つこと自体を求めているのではなく、あなたは立って出てこれるでしょう、と私たちを「信頼」して呼びかけていると言えるのではないか、と。
 
どちらにしても、神と私たちとの間の関係が「信頼」であるということについて、言い換えればそれはつまり「信仰」について、ひとつに理解と確信がつながるような思いがしたのだとも言いました。こうして、学びの場は、語らいの場であり、そこに一筋の霊の流れが皆をつなぎ、包んでいたと見ることもできました。
 
青年たちの思いも垣間見て、その健全な気持ちにも触れたことをうれしく思いつつ、結婚という、カトリックでは秘蹟(サクラメント)にカウントされているほどの大切なことについて、青年たちが語り合えるような、学びや相談の場が教会にあってよいのではないだろうか、とも思いました。SNSで熊本のほうから漏れ入るそのような場がとても楽しそうに、また有意義に見えるものですから、なおさらそう思います。
 
ところで、結婚観について意見を求められた青年たち、「えー」と内心思ったことでしょうね。でも少し勇気を出して口に出してくれたことについて、拍手と祝福を送ります。何か皆さんがここから新しい一歩を歩み始めることができたらと願います。聖書を大切に受け止めている気持ちがあるところには、必ず導きがあると信じます。皆さんのそうした出会いや将来について、また結婚がすべてではないという意味を含んだ上での、これからの生活について、今日から祈り始めました。応援していますよ。ちょっと迷惑に感じられるかもしれないと思いつつも、いつでも皆さんの味方でありたいと思っています。


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