教会の大きさと牧師のための祈り

2017年10月5日


「家族的な教会なんです」と紹介することで、親しみやすさをアピールする、というのが、日本の多くの教会にありがちな態度でした。それはまた、日本の教会が一般に小規模であるということにも基づいていますが、むしろ小規模であり続けたいという潜在意識があるのではないだろうか。そういう問いかけを先日受けました。
 
一方で、教会成長などと言われ、大きな教会を望んだり祈ったりするものの、いざ大きくなろうとすると、ブレーキがかかるのだという現実の体験を、その牧師は語ってくれました。教会員が、互いに目が行きとどき繋がっていられるような、一定の容量のようなものを内心思い描き、そこに居心地の良さを覚えているのかもしれない、ということでした。
 
しかし、その「家族的な関係」を超えていくことが、教会成長のポイントとなり、果ては日本における福音伝道の要となるだろう、という見解が与えられました。
 
一概に、どちらのみがよい、とは決められないでしょう。それぞれの教会はそれぞれに建てられますから、公式的に、こうあるべきだ、と画一的に判断するのは、特にプロテスタント教会には適切でないような気がします。
 
かといって、今のままでよいのだ、としてしまうのももったいないこと。「あなたの天幕を広げよ」(イザヤ書)との言葉を受けて、祈り、励むこともよいと思うし、翼を広げて多くの魂を招き入れる宣教は、怯んだり遠慮したりすることがあってはならないでしょう。他方また、集う弱い少数の方々の魂を懸命に配慮していくこともすばらしいと思います。そういうところでこそ居場所と思う人も、きっといるわけですから。
 
けれども、その牧師の経験上、人数がさほど多くない教会であるにも拘わらず、前任者や複数の指導者の存在について、自分は何々派だと公言して憚らない教会もあったという話も聞きました。まるでコリント教会のことかと、私は聞いていて目を見張りました。逆に、パウロが懸念したその事態は、何もメガチャーチにこそ起こるというものではなく、ささやかなコリント教会の中に現実に起こっていたのだろうというリアリティも感じました。
 
いずれにしても大切なことは、人間だけを見ないこと。私たちは、人を見に教会に行くのではありません。また、「教会」というのは建物ではなく、人の集まりです。おや、これは矛盾しているように見えますね。でも、人の集まりでありながら、そこには見えない方がおられる。キリストが立っておられ、そのキリストを通して神を知る。キリストの弟子とされた私たちは、キリストに会うために、同じ霊に導かれた人々とともに集い、神を称えるのです。
 
だからまた、牧師をあまり特別なスーパースターのように思い込まないことも、信徒にとっては大切です。牧師に依存しないようにしたいもの。そして、牧師を支えること、なによりも牧師とその家族のために祈り続けることが必要です。牧師は、えてして孤独です。牧師仲間同士ではよく語らいますが、自らの教会内では、どこか孤独な精神状態とならざるをえない情況にあります。牧師は、愚痴めいた呟きや悔い改めは、なかなか公言できないものです。もちろん神に祈り訴えるのだというのは正論ですが、私たち一般の信徒が牧師に相談したり同胞に祈ってもらったりする、そのようなことが、牧師としての立場では簡単にできないのが通例です。牧師の傍でそういう受け皿になりうる信徒、それも貴重な役割となりうることでしょう。私はそういうところに召されていると、実は思っているのです。


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