博多港の引揚者の歴史

2017年9月27日

のこのしまアイランドパークからの帰り、渡船場近くの喫茶店「かもめ」に寄ることにしました。民家を改造した、しかし小ぎれいな店で、あたたかな雰囲気がしました。それで船を一便遅らせることになり、1時間の空きが生じました。チラシで見て関心をもっていたのですが、すぐ裏手に博物館があるということなので、行ってみることにしました。
 
鋳つぶされそうになった金印を買い取り鑑定して守った儒学者・亀井南冥が大きく取り上げられ、修猷館との関わりも驚きましたが廻船についての詳しい説明と模型、太平洋を単独航海した福岡市の牛島竜介さんの部屋もありました。(なお、長谷川町子さんについても紹介され「サザエさん」が自由に読めるようにされ、以前日野原重明さんが能古小学校にいらした関係で日野原さんの本が販売されており、会議室は「日野原ホール」と名づけられています。)
 
この夏から秋にかけての企画展が別館にて開かれており、ここが私にはとても心に遺りました。「隠されていたプロパガンダ」という題で、戦後長野で隠されていた135枚の戦時中のポスターやチラシです。これが実にすぐれた広告で、当時の社会の常識、また人々の目に映っていた景色ということで、生々しく感じられました。
 
その上の階には、博多港での引揚者についての史料が展示されていました。私は愚かにも、知りませんでした。戦後海外からの引揚者の人数が、日本で一番多かったのが博多港であるということを。その数139万人余り。日本のクリスチャン人口より多いのです。
 
佐世保港と人数が殆ど同じですが、わずかに多いと記録されています。また、博多港からは、朝鮮や中国へ戻った人々の数も膨大であることも、考えてみればそうなのでしょうが、これまで意識したことがありませんでした。恥ずかしい無知です。
 
引揚者は一時能古島沖で検疫を受けるなどしたこともあり、ここに史料を収集したとのことでした。そこに漫画家のちばてつやさんがいたことから、「中国引揚げ漫画家の会」が立ち上げられ、赤塚不二夫さんらがそのために情景を綴り、また描いていました。
 
引揚の際の食糧事情、病気や犯罪被害など、これも考えてみれば当然あった苦労ですが、改めて突きつけられるまで、私にとりどこか他人事というか、無関心であったことを恥ずかしく思いました。
 
戦争が何をもたらすのか。口先でカッコつけたり建前を美しく述べるのは簡単です。それはまた、自分では戦地や外地に行かない者が決まって言うことです。敵が来たら丸腰でいいのかとけしかける声が、まるで正義のように聞こえます。戦争ものの映画がセンチメンタルに描くような物語などでは決してない、惨さの中にある戦争をも、クリスチャンは、聖書の中から辿ることがまだできる立場にいると思われます。
 
キリスト教と戦争について、近年問われ始めていますが、過去の「戦争」の語がさす対象が、いまの時代の「戦争」の語がさすものと恰も同じであるかのように思いなしてしまう誤りから抜け出して、過去にはなかった形での、争いを治める手だてを真摯に問い、行っていくようにするのが、いまここに置かれている私たちの、重要な使命ではないでしょうか。そのために、知っておくべきことは、知っておくべきなのだと、痛切に思わされたのでした。

   能古博物館 (別館)


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