目を覚ましていなさい。

2017年8月12日


1万タラントンの借金を許してもらった直後に、100デナリの借金を許せなかったしもべ。クリスチャンは時折、いえもしかするといつも、このしもべになっていやしないでしょうか。
 
ひとの悪を受け流していくというのがよいとは思えません。ひとを非難する必要もあるでしょう。しかし、その時に、一方的にひとが悪であり自分は正義の味方なのだと思い込んでいるとすれば、かのしもべと全く同じです。ひとへの非難は、もししなければならないと思われたときには、自分もまた同じであるという痛みと共にするものだ……私には、その意識がいつも伴うのです。だから、ひとを非難するのは、しんどいです。
 
イエスも、書簡の筆者も、聖書ではよく「目を覚ましていなさい」と私たちに命じます。イエスがゲッセマネでそう告げたときにも寝呆けていた弟子たちの姿は痛々しいのですが、私などはもっと酷い有様であったことだろうと思います。
 
さらに問題なのは、私たちが目を開いているようであっても、実は目が覚めていない、ということです。これがたちが悪い。私たちは、自己意識において自分というものを認識しているつもりですが、この自己判断が究極的に不可能であることは近代哲学が辿ってきた道であるなどと言うまでもなく、自分のことを自分で判断することが無理であることは、私たちも日常的に分かっているはずのことです。だのに、信仰については、自分の信仰はこうだなどと突っ走ってしまうことが度々あるのが不思議です。
 
終末に備えて、「身を慎む」ようにという諭しがあります。日本語でもちろんそれが間違っているわけではないのですが、その原語を使われ方から見ると、「しらふでいる」という意味を表すものだといいます。酒に酔っていない、ということです。ということは、実際に酒を飲んでいなくても、人間の認識というのは、酔い痴れているようなものだ、というのです。
 
何に酔うのでしょうか。最初の例でいうと、自分は罪が許された、そこに酔ってしまうと、自分は罪の中にあったということを忘れるほど酔っぱらってしまい、仲間を許せなくなったのかもしれません。酔うと、とにかく適切な判断ができなくなります。なあに、運転しても大丈夫さ、と気が大きくなります。抑制が利かなくなります。人間が元来、自分を神とするような自由と尊大さを有しているとするならば、どんどん自分が正しいと自分で認めて振る舞うようになってしまいます。
 
しかしまた、そうした暴走に対しても、目を覚ましていなければなりません。私の苦い経験がそれを物語ります。私もまた、眠りこけていました。ある教会で、教会を破壊する人物たちの欠陥を、見抜けませんでした。いえ、予感はしていたのです。「おかしい」と感じてはいたのです。しかし、その「信仰」の歪みを放置しておいてしまいました。信頼してはならない人物たちを信頼していたがために、その人たちはどんどん膨らんでいきました。聖書から聞くことのない人間が、恰も聖書を語るような素振りを見せるときが、一番危険であると学びましたが、そのためには大きな犠牲を伴いました。
 
自分が膨らまないように、目を覚ましていること。他方また、教会の一部が膨らんでいかないように、目を覚ましていること。酔い痴れてしまわないこと。そんな戒めが私の中に釘を刺するうよなりました。そのため、私はどこか醒めた眼差しを送ることもありますが、神の呼び声をつねに受け、心は燃えています。その証しが、こうして神からの言葉を受けて発することです。二日に一度の長い文章はお読みになるほうもしんどいでしょうが、聖書からの言葉は、一つひとつが説教要旨です。そこからいのちがもたらされるようにと祈りつつ、いのちのことばを伝えようとする、私の信仰です。それが私情を説くのでなく、神の心に関するものであるならば、いくらか目を覚ましていられるのではないかと願いつつ、送り続けます。それらの聖書箇所は、日本聖書協会発行の「聖書愛読こよみ」から戴いています。

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