平和について

2017年8月6日


私の世代では、小学生のころ、8月6日は登校日でした。夏休みの中で、8月の1,11,21日が慣習的に登校日でありましたが、6日も登校日に加えられたのです。もちろん、それは「平和」について考える一日でした。
 
ただし九州では、小学校の修学旅行は長崎と相場が決まっていて、原爆資料館がコースに入っていました。その意味では、まだ「修学」の意味が十分あったとも言えるでしょう。もちろん、いまでも歴史を訪ねるといった実践の旅行ではありますが、何か学ぶのかしらというようなスポーツや海外の「修学旅行」もあるように聞くと、考えさせられます。
 
ですから、8月9日のほうが、より身近に感ずるような気がしていました。広島は九州に近いとはいえ、「海外」のイメージがありました。長崎に、キリシタンの歴史があり、爆心地に天主堂があったこと、また永井博士の名前は、当時はただの知識でしたが、クリスチャンになってからは、もはや祈りしかできないような、重さと深さを覚える出来事として胸に刻まれることになりました。
 
永井博士は、名前が隆であるということだけでも、何か他人のようには思われず、著者をたくさん読んだというわけではなかったのですが、命を削ったそのはたらきについて聞くだけでドキドキしました。長崎の信徒を小羊に喩えたことは批判者をも呼びましたが、どれだけのはたらきを現場でしてきたか、その人の精一杯の祈りには、嘘はなかったとは思います。指一本汚していない者が、とやかく偉そうに非難することは控えるものだという原則が私の中にはあるものですから。
 
広島は、やはり少年ジャンプの「はだしのゲン」が衝撃でした。が、どんな映像よりも、ゲンの哀しさや悔しさ、そして元気さに、同じ少年として感情移入できた点では、原爆を疑似体験する機会となったかもしれません。いやはや、マンガとしては異例の残酷さではありました。
 
それがこのたび、「この世界の片隅に」で新たに原爆について心に刻み、考えさせる機会が与えられたのは、記憶の継承のためにはよかったのではないかと思っています。こうの史代さんの作品は、私は先に『夕凪の街 桜の国』に触れていたので、あの独特の「間」と、相手を正視せず横向きにふっと呟く言葉を読者に送り込む雰囲気を覚えていました。映画はそれを、のんさんがよく醸し出していたと思います。
 
そのこうのさんは今、京都府福知山にお住まいです。一時映画館がすべてなくなった福知山市に、また映画館が復活し、こうのさんも昨年は映画館のために貢献していた様子でした。8月中旬の休みには、車で福知山まで帰省します。妻の実家がある街です。花火大会での事故で知られるようになりました。盆踊りは催されますが、花火大会はあれ以降再開されることがありません。あの事故のとき、花火が始まらないのを遠くの高台から待っていた私たちは、周囲の人から事故のニュースを聞きました。犠牲になった方とその家族などの方々にもなんとも苦しい思いがしますが、いまなおどうしようもない後遺症を担った方々は、どうすればよいものか、知恵すら私にはもてません。
 
原爆は、人の死を数字にしてしまいました。戦争は、人を数字にしてしまいます。意味や意義をそこに認めることがありません。命は大事だとか、人殺しは罪だとかいう意味づけが、完全に破壊されるのが、戦争です。「強い者」の論理だけが存在を許され、「弱い者」は存在意義がないとしてしまうのが、戦争です。戦争は様々な形をとります。そんな確信犯が一年前に凄惨な事件を起こしたのでもありました。戦争は、実は誤っている論理が、さも真理であるかのように人を染め、強制が当然の社会に変えてしまいます。
 
しかしまた私は、「戦争」の反対が「平和」である、というようにも考えないことにしています。それは古代ローマ帝国の論理に過ぎないのに、今なお人の思想を支配しているようにさえ見えます。平和は、その程度のものではない、もっとすべてを覆うことのできる概念であるに違いない、と私は思います。戦争に対立する程度のものではない、と。恰も、悪魔と神が対立するという図式を聖書の信仰が用いなかったのと同様です。神ならびに小羊が、すべてとなられるのです。平和だけしかないものが究極的に実現されるというのです。その平和をつくる者(原文は一語)は神の子と呼ばれるのでしょうが、複数形で表されていますから、まるで神殿建設に携わるかのように、選ばれたクリスチャンが、その実現に何かしら役立つのかもしれません。
 
私たちは、いま、平和を作ろうとしているでしょうか。些細な感情で怒り、自己が正義だと息巻き、自分で自分を神にしていないでしょうか。愚かだと人を見下し、他人の目の中の塵を探すことで自分の狩猟本能を喜ばせているようなことはないでしょうか。原爆を落とすような財力も権力も持ち合わせていないかもしれないけれど、言葉や行為による爆弾を投げつけたり落としたりしている、そのことに気づいてさえいないということは十分ありえます。クリスチャンは、いつでも、そこに戻れる基本・規準たる聖書というものをもっています。私たちは誰も、聖書から、神のことばからスタートをするならば、ピースメイカーズの一人に数えられる資格があるはずです。
 
8月6日が主日礼拝の時となった2017年。教会では平和を思う礼拝としてこの日を過ごすところも多かったことでしょう。その場で、世の中の他人の悪や戦争ばかりを敵視して非難するような言葉が始終投げかけられていたとしたら、私は哀しく思います。教会は正義の味方です、と豪語するような説教があったら、その教会はもう壊れていると言えるかもしれません。それ自体、平和に貢献することだとは少しも思えないのです。相手を非難して指さす人差し指の陰に、三本の指が自分を指しているでしょう。そして、親指は天を、神を指さして非難していることになるでしょう。(ただし手話で人を指さすのは必要で普通のことですから誤解なさらないように。)
 
平和を拒んでいる最大の存在は、何であるのか。それを問いかけ、共通してある方向を見つけ、気づく教会であってほしいと願っています。

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