からだが覚えている

2017年7月11日


益城町復興市場屋台村は、被災した飲食店などが集まったテント商店街なのですが、秋にも閉鎖されるという話もあり、営業する18店舗の多くは、他で営業できるかどうかについては不安な状況だといいます。
 
前回そこで、飯野小学校ブランドのタオルを購入しましたが、今回はくまモンのタオルにしました。暑い時季、タオルはいくつあっても便利です。
 
そのお店の方が、どちらからと尋ねるので、福岡からだと答えると、朝倉などの水害のことを心配してくれました。福岡市はそういう被害はないというお答えをするしかないのですが、そこで私は、こうして連日災害の報道がされることで、辛いことを思い出すのでしょうね、と言いました。
 
とくに避難所の様子、生活に絶望しているような姿を見ると、また思い出してくるし、心が重ねられる苦しさを覚える、そんなふうな気持ちを語ってくれました。
 
からだが覚えているものですよね、と私は告げました。そして、阪神淡路大震災の揺れを京都で覚えたが、あの揺れはからだが覚えているのです、と言いましたら、たいへんその方は共感してくれました。そうです。これは頭で思うだけのことではないのです。災害の報道が流れることで、からだ全体が、「あの時」に戻るのです。報道は必要なことですが、このようにして、振り出しに戻されるような心に、私たちは少しでも近づく必要があると思います。
 
部屋の中はあの地震で散らかったし、頭上のテレビ(当時のテレビは薄型ではない)が落ちていたら死んでいたという恐怖はあるものの、実質被害のなかった私に比べると、屋台村で被災したお店の方々は、確実に大きな被害を受けたのだし、1年3カ月を経てなお未来像を描けず、ついにはこの場所からも出て行かなければならないという立場にあり、辛さの量も質も違います。でも、からだが覚えている、この感覚は、大切なものだと改めて思わされました。
 
神の子が、人と同じ、いえ、人以上の痛みを味わい、最悪の惨めさの中に殺されたこと。キリスト者は、からだが覚えている、そのイエスの姿を目の前につねに見ていることでしょう。からだで覚えているからこそ、イエスには人を救う力がありました。
 
ともすれば、善意からやろうとしていることで、ボランティアがどんどんと自分の論理で走るということがあり、肝腎の人々の気持ちに反するように変わっていくことがあります。朝倉などの場合にしても、なんとなく現地に車で向かい、支援車輌の通行を妨げることに気づかないなどはありがちですし、ありがた迷惑な物資を押しつけるようなことがあってもいけません。被災した方々が中心にいます。そうした方々の気持ちを完全に理解することができるのは、キリストしかいないのかもしれません。そうした前提で、自分で善を決めつけず、よく見て、聞いて、想像することが必要なのだと思わされます。


【補遺】「キリストのからだ」という言葉もあるように、聖書の文化において「からだ」は肉体を端的に表すのとは違うものと思われます。ギリシア文化からだと、肉体と魂の分離という死の考えがあるように、肉体と霊魂との二元論からスタートしていくものでした。しかし聖書では、そういう考えをとっていないように見えます。それをとってしまったことにより、異端的な思想が生じて初期の教会を混乱させたとも言えましょう。「からだが覚えている」というのは、そういう肉体の記憶ということに留まらず、人間の人格全体に響くような体験的覚え方をしている、というような向きで捉えて戴ければと思います。ただの記憶でもないわけで、精神的な領域での悩みというものではないということです。地震の記憶は、心理学的に操ることができるというような性質のものではなく、その人をまるごと漬け込んでしまうような出来事であることでしょう。忘れるように仕向けることは、その人を全部否定することにもなりかねません。私たちは、その人の出来事をそのまま受け止めるのを避けるために、自分を安心させたいばかりで、いろいろと説明を施したり、理由付けをしたりしがちです。たとえ劇的ではないにしても、聖書のことばで神に出会い、神に救われたということが、一定の理論の中で説明できるようなことではないように、「からだ」という語で示される、思いや口先だけの問題ではないその出来事をまず認めることからスタートして然るべきだし、またもしかするとゴールも、そこにあるのかもしれない、というふうにも思うのです。

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