信頼の関係

2017年6月13日

甘やかすことになりはしないか。牧師の問いかけが私の心に呼びかけました。私の心の中のごた混ぜの引き出しに、ひとつの整理ボックスが置かれました。その、私の中の(苦手なのですが)整理整頓をレポートします。従って、これが説教内容であったわけではありません。
 
その説教では、教会が時折厳しく持ちかける問題がまず省みられていました。「自分の罪を認め、悔い改めなさい。そうすれば救われます」という公式を以て人々に迫り、これが福音だと迫っていた、あるいは教会とはそのようなところだと思わせていた、それではいけないのではないか、と。
 
神は赦したもう。あなたの罪は赦されている。福音書のイエスは、俯く人々に、あるいは俯かされている人々に、罪の赦しを告げています。悔い改めたから、神が赦したのではなくて、神はつねにすでに赦している。ただそれを認めるかどうかの問題なのだ。だから、言うならば、赦されているから悔い改めるのだ。この方向性に気づくのが、福音の中心なのだ、だからこそ良いニュースなのだ、というのが、告げたかったメッセージであったはずでした。
 
だが、それでは――パウロの議論にもあったように――、すでに救われているのなら、何をしても構わないんだ、と折り紙付きの宣言なのだと喜んで好き勝手ができる、そのように勘違いをする人が現れるのはないか、と懸念されます。悪に傾く自分への傾向性に悩む人を、むしろ甘やかすことになりはしないか、という問題が発生すると思われるのです。
 
いえ、倫理的には多くの人は、だから悪いことをしてもよい、という意味には捉えないでしょう。むしろだから善いことをすべきだ、というように考えるのが健全な精神の人々の結論なのでしょう。けれども、神の赦しの宣言と、善へ向かうこと、あるいは神に従う生き方をすることとの間には、論理的な関係はないと言わざるをえません。必然的にそうなるというつながりは、見当たりません。
 
この間をつなぐのが、キリストでありましょう。イエスは、その断絶を「信」でつなぐために、「愛」を以て、神のほうから人のほうに近づいて来ました。しかしそれは、筆舌尽くしがたい苦しみを伴うものでした。それほどに、人と神との間に架け橋をすることは困難だったのです。「愛」はある意味で神の側が御自分を棄てることでした。それに対して人は応えてくれると「信」じていたと思われます。
 
人が果たしてそれに応えることができるのかどうか。つまり、人がその神の「信」に対して、人なりの精一杯の「信」を以て応答できるのかどうか。ここにもまた、論理的・因果的関係はありません。だからこそ、それは「信」としか言えないものなのです。聖書は基本的に「信仰」と訳しますが、時に「信頼」とか「誠実」とか訳し分けています。「忠実」や「真実」のような語になっているものもあったかと思います(すみません、調べていません)。一般的ではないが「信実」という訳を好む訳者もいます。これがニュアンスをよく伝えてはいますが、それにしても、同じ語が、全然違う日本語で幾通りにも同じ聖書の中で示されているとき、その選択判断が適切かどうかが問われます。いっそのこと、全部同じにしておいて、あとは読者の判断に任せる、というのがひとつの「誠実」な訳のあり方なのかもしれません。
 
ともあれ、神のほうからはたらきかけて、キリスト・イエスを人の世にもたらし、最終的には最大の苦しみを味わわせて、信頼関係を結ぶ窓口を設けたのだとするなら、人はそれに応えて、受付に走り、(チケットの販売もひとつの契約ですから)契約関係を締結するとよいのです。売り出された券を(贖宥状ではありません)、しかもただで買える券をもらいに行くことを、「甘えた」者はしなかったことになります。決して「甘やかす」ことにはなっていません。メッセージが掲げた問いの答えも、もちろんこの点は一致していました。
 
格安旅行に申し込んで契約しておき、旅行会社が潰れて契約を一方的に破棄されたが、契約で支払ったお金は戻ってこない……そうした事態もありましたが、確かに契約は信頼です。クレジットです。「あなたはこの神の差し出した契約を信頼しますか」と、人の前に、その問いが突きつけられます。世の商売でも、多くの場合は、素朴に信用しています。時に、「詐欺じゃないかなぁ」と怪しむ場合があります。だから、その問いに応えるかどうかは、客の側の選択によります。必然ではなく、自由に基づいて関係が決まります。
 
「あなたは、赦されているのですよ。さて、これからあなたは自分がなんでもできて、自分が正しくて、他人が自分の道具であるかのように生きて行くつもりですか。それとも、自分にある罪に気づき、神のほうを――イエス・キリストを通して、聖書を通して――向くように転じ、神との関係を信頼して、神があなたに期待している生き方をするように、これまでの自分がしてきたことや考えてきたこと一切にこだわらず、変わっていくことをしますか。あなたはこれまで苦しんでいたかもしれません。辛いこともあったでしょう。でもまた、そればかりでなく、人を苦しめていたこともあったでしょう。気づきましたか。そうです。これまで全く見えていなかった世界が見える地平が新たに見えてきます。あなたは望みなく、足場も確かでなかったこれまでのあり方とは別の世界が見えるように、立ち上がらせてもらえるのです。イエス・キリストはそのためにたくさん言葉を投げかけます。聖書の中に描かれた物語は、昔話ではありません。その一つひとつが、その新しい生き方を始めるケーススタディにもなっています。あなたへの処方箋です。あなたがそこに描かれているでしょう。聖書はあなたの物語なのです。いろいろな反応をした人物がそこに記されています。あなただったら、どうしたでしょうか。そしていまここで、あなたはどうしますか」

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