世と教会の壁に気づき、可能なかぎり取り払うために

2017年6月12日

――教会って、どのくらいの時間、祈るんですか。
 
ある人に問われました。私は自分の耳を疑いました。が、すぐにその質問の意味を解しました。
 
――一日のうち、何時とか何度とか、決まっているんですか。
 
そうです。イスラム教の礼拝のイメージがその人にあったのです。私はもちろん、主日の礼拝のおよその姿を、できるだけ一般的な言葉を使ってお答えしました。しかし、牧師の説教を聞きます、と言ったとき、その人が驚きの反応をしました。
 
――説教!?
 
ああ、そうか。「お説教」を受けて、叱られるのだと感じたのです。日常語で「説教」とは、その意味しか誰も知らないでしょうから。「教えを説く」と、原意はこちらにあるのですが、もはや支流の意義しか普通は解されなくなっていました。
 
これが標準なんだと思いました。教会の側にいると、あたりまえのようになっている語が、実は秘密結社的な専門用語になっている。その隠語を使ってアピールしたところで、何の魅力も感じない、それが現実だということに、ちゃんと向き合う必要があるのだ、と痛感しました。
 
クリスチャンではないと言いますが、イギリス文学研究の関連から教会に対してやたらマニアックに(失礼!)研究をし、むしろ教会の誰よりもキリスト教について詳しくなったかのようにして、『なんでもわかるキリスト教大事典』や『もっと教会を行きやすくする本』など多くの本を著している八木谷涼子さんは、そういう断絶間をつなぐために大切な提案をしてくれていると思います。特に後者は、具体的に、さまざまな教会の礼拝に出席しての実際の印象や知恵をふんだんに提供してくれる、まことに貴重な証言だと私は思っています。この本をその教会の誰ひとり知らないということのありませんように。
 
また、いまネット上で大反響なのが、東京・上馬キリスト教会のツイートです。とにかく面白い。ここで下手な紹介を私がするより、実際にご覧になったほうがよいのですが、多く出てくるそのリツイートが、「自分はキリスト教(信者)ではないが、このツイートは好き」「これを見て教会に行きたくなった」の声、声、声。世間との溝を確実に狭くしてくれているのです。ある人から見れば、ふざけているとしか思えないそのツイートの数々。しかし、今日の時点で30000を越えるフォロワーがあるのは、むしろ突破口であることに、キリスト教界全体が気づくべきだと私は思っています。

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