たとえば原子力発電について思っていること

2017年6月7日

行いのない信仰は意味がない。救いの基礎づけを最大の問題点とする議論の際には、こうした言明が藁のように見えたとしても、無理はない。しかし、地を旅する歩みの中で私たちキリストにある者は、行うというあり方のために長い時間を費やすように置かれている。行いは救いの根拠ではないにしても、行いを生きていくよりほかにない。
 
だから、弱い立場の人々を助ける行いが求められるだろうし、社会や権力が誤った方向に動いていくことに対して実際に抵抗したり闘ったりすることが必要なのだ。その通りだ。
 
それでも、私は、特定の政治運動に加わることができない。哲学を知る者として傍観的になりがちな傾向があることも弁えつつ、それでも、そういう行いの中には入ることができないでいる。
 
たとえば、原子力発電の是非について、政治的な意見が闘わされている。私の気持ちは、原発を推進することには賛同できないものである。しかし、推進派を糾弾したり揶揄したりするような行いをしたいとは考えていない。優柔不断なのか、無責任なのか、意気地なしなのか、言われればどれもその通りなのだろうと思う。
 
高木仁三郎という物理学者がいた。原子力発電についての専門家であった。1980年代、その書に触れ、視野を広くしてもらった経験をもつ。小学生のころ、玄海の原発を社会科見学で調べたとき、夢のようなエネルギーだと理解していた私は、高木氏の指摘に、考えを変えた。自動車事故は、飛行機事故より遙かに事故率が高い。だが、飛行機事故は、一度起これば多大な被害をもたらすし、助かる可能性が限りなくゼロに近くなる。原発事故は、おそらくめったに起こりはしないだろう。だが、一度起これば、地球規模で危機に陥る可能性をもつ。実際、チェルノブイリ事故(1986年4月)は、情報開示の点でも分からない部分があるが、いまなおその影響が終息しているわけでないことは確かである。
 
高木氏は、2000年に亡くなっている。が、生前すでに、福島第一原発の危険性を強く指摘していた。地震・津波により壊滅的な被害をもたらすことを正確に予見している。だが、それを想定せよという警告を、社会は――私たちは――聞こうともしなかった。まさに専門家であるがゆえに、危険性が分かっていたし、それを多くの著書などを通じて訴えていたのに、当時から原発廃止を訴えて反対していた人は、ごく少数であった。
 
そして、東日本大震災が発生し、高木氏の指摘どおりの事態が現実となった。これを見て多くの人が怯み、原発の怖さに震えた。原発は一時、日本ですべて停まった。実際の被害者を援助することよりも、原発反対の声のほうが大きくなっているように見えることもあった。だが、当初の危機を脱すると、経済産業的理由からか、原発は必要であるという声が息を吹き返してくる。そうして、再稼働が始まった。
 
再稼働反対。その声は、確かに正当ではあるだろう。再び事故が起こらないという保証はない。「もんじゅ」の事故(1995年12月)のように、人為的な要素がこうした事故に関わることからしても、原発が一度事故を起こせば壊滅的な被害を与えるということの危険性と、技術や人間の操作に対する信頼性が薄くなったのであろう。
 
しかし、代替エネルギーは、依然として石油に依存しているのが実情である。風力なり潮力なり地熱なりバイオマスなり、研究は進んでいるものの、化石燃料の占める割合は圧倒的に多い。それは枯渇エネルギーである。かつて20世紀末には石油が掘り尽くされるという説すらあったが、その後新たな石油鉱脈が見出されると、再びそれが無限にあるかのような錯覚に陥っているのではないかと疑われるほどの状況である。
 
どうしてそうなるのか。私たちが、莫大なエネルギーを消費したいからである。もし石油がなくなれば、私たちの生活が、このままで続けられないからである。ぶっちゃけ言えば、この贅沢な暮らしを、止められないのである。石油を守るならば、原子力を使うしかない。これが、原子力発電開発の当初の意図であった。鉄腕アトムの中に、希望をもっていたのである。しかしその原子力におけるリスクを福島の事故で目の当たりにすると、原子力に反対だという思いが表に出る。だが、生活レベルを下げたくはない。国の産業を衰えさせたくない。貿易戦争に勝たなければならない。ならば石油を再び過大に消費するしかない。
 
そうなのだろうか。少なくとも、原発は反対、だが経済は発展させる、そうした目論見は、矛盾していないだろうか。この便利な世界を諦めてしまうことで、限られた資源を大切に使わせて戴く方向になることはありえないのだろうか。自然(という言い方自体が近代的な主体概念に基づくものであり聖書的世界観とは違う把握の仕方であることを承知の上で使う)を管理することを聖書で神が人に任せたとするならば、資源をこのわずか百年二百年という、歴史の中でごくわずかに過ぎない期間に、地球の有するエネルギーをすべて使い果たすような勢いで、自分たちの快楽や欲望を満足させているような、私たち一人ひとりの生き方や、それが決定する社会のあり方を、大前提として議論し、あるいは自己義認していくことで、よいのだろうか。
 
今回の震災に伴い原発事故について、被災者に対して責めることは何もない。不幸な同胞に対して、助けられる手段があるならば何でもしていきたいし、していくべきだと思う。まして、被災した子どもたちをいじめるような真似をすることは、あってはならないと思う。大人たちへのいじめも深刻である。しかし、いじめは、いじめる者がいて初めて成り立つ。私たちがいじめているのだ。私が、こうしてパソコンで電力を使い、通信インフラに頼っているそのこと自体が、あの人たちを苦しめたのだ。私がこのエネルギーを必要とするから、そうしたたくさんの「私」が集まって輿論となり、人々の求めるところだから、と政治家が民意を根拠に、原発を推進するのである。私の行為が、推進の理由にもなっている。ニーズがあるからそれを採用するという形の正当化によって、政治家は政策を決定するのが仕事だ。かの政治家たちが独自に陰謀して、原発を再稼働しているのではない。私たちが、そして私が、こうして電力を使っているしそれを必要としているから、再稼働をするしかない、という動きに直結していくのだ。原発は危険だから反対する、だが私はたくさんの電力を使い、車を走らせ、エネルギーを多く使ってもたらされる食品を愉しむ、こうした態度は、実に無邪気な悪であるように、思えてならないのだ。
 
まして、政治家について何か気に入らない部分を見て、その政治家たちがプライバシーもなく休みなく仕事をしていることを自分は少しも真似すらできないくせに、悪口を言い、揶揄し、そのようにアザゼルのものとされたヤギの如く政治家たちに罪をかぶせ、その悪人を批判している私が実は正しいのだ、と思いなすような精神状態でいるとするなら、しかも陰でこそこそ、自分だけは安全な場所に隠れて皮肉のひとつでも言っているようであれば、それが最も悪い罪であるように、私には思えてならないのである。政治への飽くなき監視や批判は欠いてはならないが、いつしか、ただのガス抜きや嘯きに変じて満足してしまう心理が人間にはあるのだ。
 
ほかの方々のことをとやかく言うつもりはない。原発反対の意見の人については、そのような行いができるということに対してはむしろ尊敬の思いを抱いている。為政者を監視し、適切に批判しなければならないことは言うまでもない。問題にしているのは、私自身のあり方である。政治家も同じ人間であり、むしろ公人として人々、そして私のために働いている。権力者のために祈れという新約聖書の言葉は、時に権力に迎合するのかとも批判されるが、私はそうではないと思う。もちろん、この世で悪を処罰する権力というものへの一定の信頼のためであるのではあるが、いま私が見ているように、同じ人間として、人々全体のための仕事をしている点に注目したいのである。私など、仕事で誰かの役に立っているかもしれないがごく狭い世界での出来事でしかないあり方をしているわけで、何万人何億人という人のための仕事をしている政治家のためには、敬服して祈るしかないと思うのである。
 
ただし今の時代、その政治家は、私たちが選ぶ制度になっている。だとすればなおさら、その政治家を選んだ私たちに責任がある。それが国民主権の原理である。その政治を選択したのは私たちであり、私なのである。政治の悪口を言い、自分のほうが正しいという心理を抱くようなことは、きっと神の視点からすれば悪に違いないのだ。そう私は感じている。贔屓のプロ野球チームがだらしないと野次を飛ばし、自分が監督になったら勝てるみたいに酒を飲みながら笑っている観客のような気持ちで、政治を見ていたくはないと思うのである。
 
長い弁明になってしまった。私がどうにも、なんとかにひたすら反対、というようなデモ行進やシュプレヒコールに加われないことへの、せこい、阿漕な言い訳であっただけなのかもしれない。卑怯者だという批判に対しても、まあその通りですと肯くしかない。ただ、よろしかったら、お一人おひとりが、何か考える材料となることができたら、と願っている。私にできることは、それぞれの方が、できる限り様々な視点を得る機会を提供することだと受け止めているからである。

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