お・も・て・な・し

2017年6月8日

旅レポ(JAPA-NAVI)。朝の情報(?)番組、「あさイチ」の木曜名物です。2017年5月25日に紹介されたのは徳島県の三好市。市の人口を超える、外国人観光客を迎えるこの地の魅力が紹介されていました。内容は番組のサイトをご覧くださるのが一番だと思います。ついでに、このアシスタントの徳島局・庭木櫻子さんは熊本出身で、熊本の震災のときには新人に近い立場でありながら、出張して取材班として堂々としたレポートをしていたそうです。
 
日本の里山の原風景であるような場所であることは分かりますが、ここに外国人が押し寄せるという魅力は何なのでしょう。海外では雑誌にも大きく取り上げられているともいいますが、何故なのでしょうか。私は、外国人観光客を「歓迎」する心を、そこに感じました。最初に紹介された方は、台湾の観光客を次々と呼び寄せている女性。東日本大震災のときに台湾の方々が支援してくれたことに、なんとか応えたいという思いで、台湾の言葉を独学で学び、台湾からの観光客を熱烈に歓迎したのだそうです。台湾の企業や団体との連携が結ばれ、交流を重ねているのだとか。
 
東京オリンピックの誘致のとき、「お・も・て・な・し」が評判を呼び、流行語にもなりました。いま、少しもこの言葉が表に出なくなりました。費用負担の話ばかりです。日本がアピールし、世界が期待した「おもてなし」は、どこに行ったのでしょうか。
 
……と、ここで政治批判に向かうのが私のスタンスではありません。(因みに心ある人がいつも注釈を入れるのですが、「批判」という日本語の響きはよくありませんが、西欧語の「批判」の語は、「検討する」というような意味であり、非難のニュアンスはありません。私も基本的にそのような意味でいつもこの「批判」の語を口にしています)
 
そう、「教会」です。
 
教会は、呼び集められた者たちが自ら神の前に出て礼拝するのが第一である、そういう共同体です。しかしまた、そこは愛のはたらく場でもあり、傷ついた人、望みを失った人、途方に暮れた人を招き安らぎをもたらす人の輪にもなっているはずです。つまりは、「もてなし」というのは、教会に似合う言葉であるはずです。また、その「もてなし」の語が、旅人に宿を提供する(中東古来の文化でもある)宿泊所をもたらした後、いまはそれが「病院」を表す語となっていることも、周知のことです。傷つき病に倒れた人をもてなすのが病院の始まりでした。
 
教会は、内輪だけの場であるに留まらないとすれば、「おもてなし」をするはたらきであると言えないのでしょうか。しかし、ほんとうに「おもてなし」をしているでしょうか。初めて来た方に、やたら話しかけたり、根掘り葉掘り尋ねるのがよいとは思いません。カトリック教会は、どちらかというと、来会者にあまり関わらないとも聞きますが、もちろんそれはそれでよい面もあるかと思います。しかし、無関心でいて、いつもの仲間だけで楽しげに集まっているだけというところには、「おもてなし」のこころがあるとは言えません。来会者も疎外感だけを抱えて、自分の居場所を教会に見出すことができない、という懸念があるように思います。
 
逆に、教会財政をどうするか、後任者をどうするか、そんなことばかりにしか関心がなく、聖書の言葉についての話題すら上らないとするならば、オリンピックについて財政問題で紛糾し、おもてなしについて関心がないかのように見えるありさまを、嗤える立場ではないことになります。
 
季刊誌『Ministry』が2月号で、「教会を開く」という特集を組んでいました。しばしば教会では「開かれた教会」にするにはどうするか、と考え合います。しかし、特集名は「教会を開く」でした。私はその中に、主語の存在を意識させるものがあると思いました。開かれた教会がなんとなくそこにあるのではないのです。誰が開くのでしょう。「教会」という名の共同体・キリストの体の一部である、私自身ではないでしょうか。私が、開く意志があるかどうか、が問われているのだと思いました。
 
「お・も・て・な・し」は、一時の流行語、俗語として消えてしまってよいようには思えません。徳島・三好市のテレビ番組を見て、そう思いました。そのこころを保っているからこそ、安心して、多くの観光客が、それほど派手なイベントやテクニックのない山村を訪ね、リピーターにもなっているのだ、ということがよく分かりました。


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