昇天日

2017年5月25日

2017年は5月25日木曜が、昇天日。教会暦の中で、聖書に基づいているにも拘わらず、地味な記念日です。主日でなくつねに木曜日であるために主日礼拝として記念するのが困難な事情もあるのでしょうか。
 
かくいう私も、特別な関心をもってこの日を過ごすことはありません。レントは、近年意識し始めました。いろいろと黙想することができると思いました。しかし昇天日は、聖書にもおそらく三箇所の記述を見るのに、また使徒信条にも取り入れられているのに、なかなかこれという思いを抱くことができないでいます。各地の教会では、どのようでありましょうか。
 
「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」(使徒1:8)は、信徒を鼓舞するためにもよく引かれることばでしょうか。ペンテコステと重ねることもあるかと思います。
 
そう言うとイエスは、天に挙げられ、使徒たちの「目から見えなくなった」のでした。復活のイエスを見た後に、再びイエスが見えなくなります。エマオへの道でもそうでした。ここではそのまま、「イエスが離れ去って行かれるとき、彼らは天を見つめていた」(使徒1:10)といいます。
 
そこへ、白い服の二人がそばに現れ、「なぜ天を見上げて立っているのか」(使徒1:11)と尋ねます。この問いかけは、私が受けてきた礼拝説教の中では強調されるものではありませんでした。が、19世紀末、C.H.スポルジョンがここに強く反応していることを近年知りました。イエスが遠ざかっていなくなってしまったと思い、いつまでも消えた先を見上げている場合ではない。イエスは生きている。さあ立っている足もとにまず目を落とせ。ガリラヤの人と呼んだのは、これまでの確かな歩みを思い起こすためである。いずれまた同じイエスが来られる。そのことを覚えておくがいい――「なぜ天を見上げて立っているのか」とは、生き方を改めるよう促すための、刺激のある問いかけだと受け止めることができるものでした。それは「あなたはどこにいるのか」と、アダムないしエリヤに問いかけたのと似たものなのではないか、と私は捉えました。あるいは、カインへの問いかけかもしれませんが。
 
何かしらぼうっと見上げて虚ろな眼差しで立ち止まっているのでなく、また過去のことを思い浮かべて悦に入るというのでもなく、いまここに置かれているそのところに立つ自分を知る。そこから何が見えるか。何に向かえと呼びかけられているか。イエスの昇天のありさまにだけ気を奪われるのでなく、「エルサレムに戻って来」(使徒1:12)ることが必要とされています。そこは危険な場所でしょう。しかし、「地の果てに至るまで、わたしの証人となる」(使徒1:8)という約束の始まる、最初の地盤となりました。ルカによるイエスと弟子たちの旅は、エルサレムを凝視しつつ目指してきたのでしたが、ここからはさあ、十字架と復活のエルサレムから、弟子たち、そして私たちはが立ち上がることを求められているのです。すると、しばしば見出します。その「地の果て」が、自分のすぐ隣にあることを。

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