ゆとり教育と週五日制
2002年4月14日

 京都の観光地を、限られた時間で巡ることになりました。
 その旅行会社のガイドブックには、有名な10の社寺の名前が挙げられていました。けれども、たぶんその全部を見て回ることは難しいと誰もが思いました。
「もう少しゆとりのある観光はできないものかね」と、観光客の一人が言いました。他の客も、そうだそうだ、と言いました。
 そこで、旅行会社のガイドが、こう説明しました。
「では、この中からこれとこれとこれと……これの6つだけは、ゼッタイに見て回ることにします。いいですか、10では多すぎてできない、というので、6に減らしたのです。ただそれでは、京都に来た意味がないというので、そこから私がリストアップした、この6だけは、100%見て回らなければいけません。これで、あなたも京都を見たということになりますし、十分ゆとりをもって観光できたことになりますね」
 すると、観光客の一人が、反論しました。
「待ってください。あなたが指定した数はたしかに少なくなりましたが、どうしてあなたが指定した6つの社寺を、必ず見なければならないのですか。もし、そのうちの一つを見損なったら、京都に来た意味がない、などと言うと、私たちは観光を楽しめなくなります。ゆとりをもって観光などと言いますが、一つでも逃すことができない、と思うと、全然ゆとりをもった気持ちにはなれないのですが」
「でも、10では多すぎてゆとりがもてない、と言ったのはあなたがたのほうです。私は数を減らして、ゆとりをもたせてあげたのです。どうして私のしたことが間違っているというのでしょうか」
 観光客は、それではこう提案する、と言って、次のように続けました。
「10の魅力的な社寺を紹介してくれたのは、ありがたいことです。しかし、その中からどれを選んで見るか、は私たち一人一人に任せてはもらえないでしょうか。全員が同じ6つを回らなければだめだ、という言い方ではなくて、そのうちの3つだけで京都を楽しめる人がいたらそれでもいいし、中には10全部回ることのできる人がいて、それで楽しかったと言えばそれでもいいし、各自が自分の興味や脚力に応じて見て回れば、それで京都を観光した、ということにしてはどうでしょうか」
 はたして、ガイドと観光客と、どちらが「ゆとり」をもたせたことになったでしょうか。

 学校週五日制が、とうとう始まりました。
 親がいない土曜日だとか、学力低下が心配だとか、ある意味で些末なことばかりが問題視されているような気がします。五日だから学力がとか、土曜日にも行くから学力が、などというのは、たぶん本質的な問題ではないように思います。もともと学校に学力を求めることを信用していないから、塾に子どもをやるのではないでしょうか。五日制を材料にして、学力のことを述べるのは、中心的な事柄ではありません。
 ある小規模の小学校の校長先生が、次のように保護者に説明していました。
「週五日制になり、ゆとり教育が実現されるにあたり、学力の低下が心配されていますが、この小学校では、教える内容を、子どもたち全員に100%理解させることを約束いたします」
 これは、この学校に限らない、多くの学校の宣言であるような気がします。

 問題は、これが「ゆとり」教育なのか、ということです。
 先の京都観光のガイドのようなことを、先生は話しているのではないでしょうか。学習内容を減らした代わりに、それらを完全に理解させることが大切だ、というのは。しかし、そのほうが、子どもたちにとってはプレッシャーがかかります。
「簡単にするから、その代わり一個もミスをするなよ」というのは、子どもたちにゆとりどころか、より緊張感を与えます。これは、塾で問題を解かせる経験からして日常的なことなのです。
「まちがえてもいい。失敗してもいいんだよ」
 この言葉でさえ、当人の受け止め方によっては、プレッシャーを受けることがあることを、たかぱんは知っています。なのに、「100%分かれ」というのは、暴挙とも言える命令です。大人がそう言われたら、どんな気がしますか。観光地を6つに減らす代わりに全部回らなければ京都に来た意味がない、と言われたとき、なるほど、と素直に従えるでしょうか。

 普通「ゆとり」という言葉を使うときは、次のような例です。
「ぎりぎりに到着するのでなくて、ゆとりをもって出かけるようにしよう」
「体にきっちりの寸法だと締め付けるので、ゆとりをもったサイズの服にしよう」
 このように「ゆとり」には、ノルマを果たすような響きはありません。それどころか、後の例の場合、ハンドルの「あそび」と呼ばれる言い方と似た内容になっています。
 自動車のハンドルは、わずかなブレがすぐにタイヤの向きを変えてしまうようにはできていません。それだと、方向が絶えずふらふら変わって危険です。少しくらいのブレならばタイヤの向きには影響しない、「あそび」の部分があるからこそ、安定した走行ができると言われています。

 私たちは、「ゆとり」を「あそび」と言い換える可能性に気がつきました。しかし、この「あそび」がくせものです。「遊び」の反対は「勉強」だと言われているからです。
 いえ、「遊び」の反対は「勉強」に違いありません。「勉強」とは、勉めて強いることであり、いやなことを無理矢理させるという意味です。「この牛肉、ちょっと勉強してーな」と頼む客は、無理してまけてちょうだい、と言っているのです。強制されていやなことをすることと、「遊び」とはたしかに対極にあると言えるでしょう。その意味で、「遊び」はまったく怠けるという意味を含んではいません。おそらく、学習・研究・あらゆる練習は、自分から望んで行うとき、それはもはや「勉強」ではなくて、「遊び」のようなものになっています。「遊び」は否定するものではなくて、むしろそれこそ必要なものとなります。
 ゆとり教育が、こうした方向性をもっているというのなら、それは大いに結構なことです。それでいて、誰でも、自由にされれば怠ける傾向がありますから、とくにどのように自分をコントロールしてよいか分からない子どもは、ある程度強制のもとに、物事のやり方を訓練されていかなければならない、というのも本当です。躾のようなものとして、学習は、とくに幼いうちには、勉強でなければならないのは事実です。皮肉なことに、幼い子どもほど、勉強は好きです。字を覚えたり、数をかぞえたりするのは、小さな子どもは大好きです。
 ほんとうは、鉛筆の持ち方(これが実にひどい!)や箸の持ち方(食事のマナーも含む)などのほうを、もっと強制しなければならないのでしょうが、そんなことはおかまいなしに、効率第一のペーパーテストの得点の数字だけを狙って親の顔を立ててね、といった、大人の視点、大人の立場から考える利益のために、勘違いをしていることが多いような気がします。

 この問題は、簡単に片づけられはしません。教育は、未来を決定する実践です。生物の遺伝子が、子孫を残すことを第一に個体をコントロールしているとするなら、教育こそ、子孫を残すための重要課題となるはずです。その教育の場面で押し通されようとしている考えが、次のものです。
 ゆとりのために、学校を週五日にし、教科書を薄くして、その内容を100%教え込むことが、子どもたちにとってよいことです。
 この論理に問題がある、と、たかぱんは訴えたかっただけです。


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