ワールドカップ
2002年7月3日


 ワールドカップが終わるのを待ってから、梅雨が訪れたようなこのごろです。
 日韓共催はできたのか、空席問題はどうなのか、審判はこれでよいのか、など問題が残っているようですが、多くの人々は、ゲームをそのまま受け入れて素直に感動したことだと思います。
 ブラジルとドイツの決勝戦の後、互いのユニフォームを交換し、そこにサインをしている姿が映し出されました。見ると、「Jesus」の下にハート、その下に「you」などと書いてあります。"Jesus loves you"の意味です。ブラジルはカトリック系、ドイツはプロテスタントの多い国ですが、同じイエスを主と仰ぐ中に、こうしたゲームを通じてつながる心があったのだと感じました。
 また、三人くらいでしたか、手を取り、地に顔を伏せて長い間祈っている姿も見えました。それまで敵同士で戦っていた者たちが、感謝の祈りをささげていたのでしょう。見ていて胸が熱くなりました。
 シュートをした後に十字を切る選手が日本でプレイしていたこともありましたが、韓国にとっての最終戦で、終了間際にシュートを決めた、若い宋鍾国選手も、すぐにひざまずいて祈りをささげていました。
 それはポーズじゃないか、といぶかしく思う人もいるかもしれません。でもたぶん、いいカッコしようと思ってあんなことをする人はいません。むしろ、人前で敬虔ぶることは新約聖書でもきつく戒められているにもかかわらず、観衆の面前で、つい、あのような姿勢が出てしまうという動機のほうに、注目してしまいます。つまり、それくらい、彼らは自然に、そして思わず、神に祈っているのだ、と。

 韓国の宋選手がシュートを決めたとき、もう後半のロスタイムにかかっていました。トルコが3点に対し、韓国は1点。でも、もし負けであるにしても、もう1点入れたかった。彼らは、どうせ負ける、などという思いはありませんでした。最後まであきらめない攻撃を続け、その成果として、2点目のそのシュートがありました。3対1と3対2とでは、やはり違う結果になりましたが、それよりも、とにかくサッカーというものが点を取るゲームであるかぎり、最後まで、希望を捨てずに、点を目指すこと、そしてそれが達成されたことを喜び感謝すること、そうした心が貫かれていたように感じました。
 聖書に「あきらめ」という文字は、死んだ息子のことをあきらめた、というダビデの説明に使われたただ一度のほかは、どこにもありません。聖書を読み、信じる民は、あきらめというものを知りません。彼らの人生の指針に、いっさい「あきらめ」はないのです。だからこそ、ユダヤ民族の歴史があり、キリスト教の悔い改めがあるのでしょう。
 日本のサッカーが、どことなくあっさりしたものに見えたのは、そのためだったかもしれません。

 ワールドカップといえば、審判の問題も取りざたされました。最近のオリンピック大会といい、国内の野球といい、審判の権威は下がる一方です。
 それはまるで、神の権威をあなどって、人間たちだけですべてのことができる、すべて支配できる、と思い上がってきた、近代の動きにならっているようです。
 でも、神の審判は絶対だ、と信じる者は大勢います。審判に従うという姿勢は当然のことであると考えます。審判も人間だから、と言う日本人が多いですが、そこにも神の国の思想がないことが現れているような気がします。審判に同情的であるようで、その実、権威が相対的なものに過ぎないと前提しているからです。神の国の思想の中にある欧米人などを見ていると、ゲームの審判の問題は問題として取り上げますが、めいっぱい審判に抵抗するか、審判に従って引っ込むか、どちらかではないでしょうか。たてつくにしても、追従するにしても、どちらにしても、審判の権威は認めていることになりますから。
 決勝戦をリードしたコリーナ審判員は、名審判だと言われています。決勝戦でも、最初の十分で2枚のイエローカードを出して選手を落ち着かせると、あとは1枚もカードを出さない試合運びを作りました。教室でも、最初に釘をさしておくと、子どもたちは以後静かになることがあります。コリーナさん、うまいですね。


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パンダ          


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