戦争と信仰
2003年3月19日

 2003年3月18日(日本時間)、とうとう、最後通告をしてしまいました……。
「神のご加護を」
 大統領は、演説をそう締めくくりました。
 信仰の名を借りて、利権や名誉を守る感情をぶつけ、命も富も無駄に殺そうとする意志に、憤りと悲しみを覚えます。
 幾つかの記事があります。リンクで示すと、サイトが移動・抹消されることがありますので、引用して紹介します。著作権上、程度を越えた引用になるかもしれませんが、公平を期するためにも、部分引用でなく、全文引用の上で、皆様にお考え戴きたいと願います。出典を明記しますので、関係諸機関も、できるだけご容赦戴きたいと願います。
 また、ここで政治的な議論をしようと目論んでいるつもりもありません。戦争をするべきだと考える人の意見にも耳を傾けますし、そう発言する自由もあると思います。反対意見も、もちろんそうです。あくまでもここでは、「信仰」との関係で捉えようとしている点を、ご理解ください。



 大統領が信仰心を表に出すのは、支持基盤があるためでもありましょうが、実際、アメリカ合衆国のキリスト教会も、戦争を強く支持する意見をもっています。
イラクとの戦争は正義か、米国の教会が聖書の観点で食い違い

【ワシントン=EP・CJC】 イラク戦争が倫理的に正当化出来るか、米国の教会は賛否に意見が分裂してきた。主流プロテスタント教会が結成している教会協議会(NCC)とプロテスタントでは最大教派の南部バプテスト会議の倫理専門家はそれぞれ異なった結論に到達した。
 NCCは、議会関係者やジャーナリストなどと、戦争を宗教的な観点で2月27日討議した。
 ボブ・エドガー総幹事(メソジスト)は、戦争も手段の一つという考えには与しない、と語った。合同メソジスト教会の教会と社会委員会のジム・ウインクラー委員長は、キリスト者が戦争に参加するという意志と、神と平和の御子イエスへの信仰との間で選択を迫られている、と語った。「政府はイラクとの戦争が避けられないという仮定に立っている。キリスト者として、私はこのような意見を受け入れ難い」としてウインクラー氏は、サダム・フセインがどんなに悪いとしても、イラクの人々は米国に「新たな独裁者、総督 」なってもらおうとは思っていない、という自らの信念を述べた。
 SBCの倫理専門家は、2月26日、『南東バプテスト神学校』での会議で、異なった結論に到達した。
 会議のパネリストは南東神学校の倫理学教授で義戦理論の権威ダニエル・ハイムバッハ、同派倫理と信教の自由委員会委員長のリチャード・ランド、南東神学校倫理学助教授のマーク・リーダーバック、同デービッド・ジョーンズの各氏。バプテスト通信によると、パネリス4人の結論は、イラクとの戦争で米国は倫理的に正当だということだった。
 ジョージ・ブッシュ元大統領当時の政権メンバーでもあったハイムバッハ氏は、戦争がある場合には聖書によって合法化され得ると語った。同氏はローマの信徒への手紙14・19や、箴言2・7〜9とローマの信徒への手紙13を引用した。
 氏は、現在の大統領の下でのイラクとの対立は、イラクが1991年の降伏条件に完全には従っていないので、以前の対立の継続として正当化されると主張、「査察を延長しても、期限なしなら、正義の戦争を平和主義に変えてしまう。イラクとの戦争は正当である」と語った。
 ランド氏は「聖書の基準は、どんな代償を払っても平和ということではない。聖書の基準は正義の平和である」と述べた。
 リーダーバック氏は、イラク指導者の心を変えるよう祈ることがキリスト者の責任だ、と語った。「キリスト者が精神的戦争を行う方法がそれだ」と言う。
 パネリストは全員、悪魔が地球を支配するのは神の意図ではないという事実を指摘し、平和主義がキリスト者にとって唯一の選択ではないという点で同意した。「悪が世界に実際に存在しており、悪に対する最後の手段として戦わなければならないこともある」とハイムバック氏は語った。
 ランド氏は「破壊的な力に訴えることは、合法的な権威によって認められれば、人間が倫理的な世界に住むために支払わなければならない負担である」と、付け加えた。



 バプテストの倫理をリードする神学校の教授や委員長は、こう発言していました。
「悪が世界に実際に存在しており、悪に対する最後の手段として戦わなければならないこともある」
「破壊的な力に訴えることは、合法的な権威によって認められれば、人間が倫理的な世界に住むために支払わなければならない負担である」
 はたして、それほどに敵は「悪」なのでしょうか。
 今回がその「最後の手段」であるのでしょうか。
 あの大統領の感情は、「合法的な権威」なのでしょうか。
 アメリカ国民の半数以上は戦争を支持していると言われます。そして、大統領を批判したカントリーグループのディクシー・チックスは「非国民」と罵られ、CDの不買・廃棄運動まで始まりました。それを見て、芸能人たちは、政権の批判を自粛するようになっています。――9.11テロの後もそうでしたが、アメリカとて、自由の国ではないのです。いくら「フレンチ・フライ」を「フリーダム・フライ」と言い換えたとしても。

 悲しくて、仕方がありません。
 信仰で戦争をする必要はありません。侵攻するのが戦争であるにしても。



 日本はどうでしょうか。まるで、この戦争問題には無関心であるかのような発言・態度に見えるのは、私だけでしょうか。しっぽを振ってアメリカについていっているだけみたいに……。
 庶民のレベルでの、反戦の動きはあります。感情的であれどうであれ、それだけの運動ができる人々のエネルギーに、私は一種の感謝を覚えます。ある意味で何もしていない私などは、実際の力となっている人々を批判する権利はありません。
 讀賣新聞や産経新聞のように、明らかに今回の戦争を推進する新聞社もあります。予防戦争を認めてよいのかと私は疑問に思いますが、たしかに、ほうっておいたが故に後に大きな災禍を招いたということにならないとも限りません。場合によっては、大統領の決断は、後世賛美されてしかるべきこととなる可能性だってあるのです。
 が、それらの新聞社とは元来対局にあると思われていた朝日新聞も、最近は動きが微妙です。
 明らかに、キリスト教を敵対・排除しようとしているのです。

2003年1月1日 朝日新聞社説

■「千と千尋」の精神で――年の初めに考える

 不穏な年明けである。
 米国のイラク攻撃は間もなく現実になるかもしれない。北朝鮮は拉致問題が片づかないまま、核開発をめぐって再び自ら恐怖を振りまいている。
 パレスチナ紛争はやまず、テロの脅威は世界に広がる。地球を覆う恐怖と憎悪の再生産。始まったばかりの21世紀は、早くも危機的な様相だ。
 世界を震えさせたのが一昨年の9月11日だったとすれば、日本人にとっては1年後の9月17日も引けを取らぬ衝撃の日であった。5人生存、8人死亡。歴史的な小泉首相の訪朝に、金正日総書記が用意した「拉致の結末」である。

 ●9・11 と 9・17

 9・11の惨劇が狂信のテロ集団を地球上に強く印象づけたように、9・17は異常で危険な国家が日本のすぐ隣にあることを再認識させた。冷戦の崩壊から10年余、これが悲しい現実である。
 米国も変わってしまった。
 「生ぬるい意見は捨て去るときがきた。我々は抑制なき過激主義者と向き合っている。彼らのレベルと同じような方法で、彼らを破滅させなければならない。撃滅こそ我々のゴールだ」
 9・11の数日後、ワシントン・ポスト紙に載った投書の一節だ。衝撃と悲嘆と恐怖が重なり合って生んだ熱狂に、この国は染まっていった。
 タリバーン攻撃から1年余り。ブッシュ政権はいま、「悪の枢軸」の一番手にすえたイラクに照準を合わせている。
 抜きんでた軍事力を背景にひたすら戦争へ突き進もうとするかにみえる米国。正義を説き、「この世界から悪を取り除く」と高揚するブッシュ大統領の言葉は、米国の著名な宗教社会学者をして「奇妙にビンラディンと似ている。我々は敵と似てきているようだ」(ロバート・ベラー博士)と嘆かせている。
 米国が嫌われるのはなぜなのか。過激テロが生まれる根っ子に何があるのか。深く突き詰めようとせぬまま、何かと世界の王様のように振る舞う米国は、21世紀のもう一つの不安材料になりつつある。

 ●気になるナショナリズム

 日本にも、米国の熱狂を笑えぬ現実が頭をもたげている。
 拉致の被害者たちに寄せる同情や北朝鮮への怒りがあふれたのは自然として、そうした感情をあおるばかりの報道が毎日繰り返される。雑誌には「北朝鮮の断末魔」「ガタガタ抜かすなら締め上げろ」などの見出しが躍る。
 日朝交渉を進めた外交官を「国賊」と呼んだり、勇ましく「戦争」を口にしたり、「それなら日本だって」と核武装論をぶったりする政治家も現れる。
 同胞の悲劇に対してこれほど豊かに同情を寄せることができるのに、虐げられる北朝鮮民衆への思いは乏しい。ひるがえって日本による植民地時代の蛮行を問う声は「拉致問題と相殺するな」の一言で封じ込めようとする。日本もまた「敵に似てきている」とすれば危険なことである。
 中国をことさら敵視したり、戦前の歴史を美化しようとしたりの動きも見られる。深まる日本経済の停滞と歩調を合わせるように、不健康なナショナリズムが目につくのは偶然ではあるまい。
 だが、悲観ばかりすることもなかろう。
 日朝とは対照的に、日韓にはかつてない友好ムードが育った。共催したサッカーのW杯では、韓国チームを応援する日本人の姿が韓国人の気持ちを溶かした。
 思い思いに外国チームのユニホームを着て声援を送る日本人も、世界には新鮮に映った。顔に日の丸を塗って声をからす若者たちのナショナリズムは、軍国日本の熱狂とは異質のものだった。

 ●多神教の思想を生かそう

 宮崎駿監督のアニメ映画『千と千尋(ちひろ)の神隠し』が昨年、ベルリン映画祭で金熊賞を受けるなど、内外で大ヒットした。
 主人公の少女・千尋は神隠しにあい、異界の湯屋で働くことになる。そこには八百万(やおよろず)の神々が疲れを癒やしにくるのだが、中には奇妙な神や妖怪もやってくる。
 ヘドロまみれでひどい悪臭を放つ「河の主」。仮面をかぶり、カエル男やナメクジ女をのみ込んでは凶暴化する「カオナシ」。始末に負えない化け物たちだ。
 だが、むき出しの欲望が渦巻く湯屋にあって、千尋はひとり果敢に、しかし優しく彼らと向き合う。そうすることで、逆に彼らの弱さや寂しさを引き出すのだった。
 この地球上にも、実は矛盾と悲哀に満ちた妖怪があちこちにはびこって、厄介者になっている。それらを力や憎悪だけで押さえ込むことはできない。それが「千と千尋」に込められた一つのメッセージだったのではないか。
 「文明の対立」が語られている。背景にあるのはイスラム、ユダヤ、キリスト教など、神の絶対性を前提とする一神教の対立だ。「金王朝」をあがめる北朝鮮もまた、一神教に近い。
 いま世界に必要なのは、すべて森や山には神が宿るという原初的な多神教の思想である。そう唱えているのは、哲学者の梅原猛さんだ。
 古来、多神教の歴史をもつ日本人は、明治以後、いわば一神教の国をつくろうとして悲劇を招いた。そんな苦い過去も教訓にして、日本こそ新たな「八百万の神」の精神を発揮すべきではないか。
 厳しい国際環境はしっかりと見据える。同時に、複眼的な冷静さと柔軟さを忘れない。危機の年にあたり、私たちが心すべきことはそれである。

 アニミズムを賛美する傾向については、私も何度か取り上げていますので、すでに上の社説に注目なさった方もいらっしゃるでしょう。
 今回、イラクとの緊張が増す中で、次のような天声人語があったのは、お目にとまったでしょうか。

2003年3月15日付 朝日新聞《天声人語》

 雰囲気を大事にする首相と信仰を大事にする大統領と、指導者としてどちらが頼りになるか。なかなか難しい問題だ。
 野党の党首と会談した小泉首相が米国のイラク攻撃について「その時になってみないとわからない」あるいは「その場の雰囲気だ」などと語ったと伝えられる。国際舞台では緊迫した外交交渉が続くなか、見上げた落ち着きぶりである。とうに米国を支持すると決めているからか、あるいは本当に雰囲気次第なのか。
 一方、「悪との戦い」を確言するブッシュ大統領には宗教の影がつきまとう。信仰心のあついクリスチャンとして知られるが、9月11日の同時多発テロ以来、その影が濃くなった。イラク攻撃をひかえて宗教色がさらに前面に出てきた。
 ピルグリム・ファーザーズといわれる清教徒の一団を先祖と仰ぐ国である。英紙によると、いまでも53%の米国人が「人生で宗教がたいへん重要な役割を占めている」と考える。英国では16%、フランスでは14%、ドイツでは13%というから、その信仰心のあつさは突出している。
 その国で、キリスト教右派といわれる人たちの支持を得、ホワイトハウスで聖書研究会を開き、演説では必ずのように神に言及する。信心深いこと自体は責められることではないが、大統領としては少々深入りしすぎではないかとの危惧(きぐ)はある。
 信仰を心の支えにして戦争に臨もうとしている大統領を、状況追随あるいは雰囲気重視の首相が説得して事態を動かすことはたいへん難しい。2人の組み合わせから、そのことだけは想像がつく。

 朝日新聞の言いたいことは、要するに、「一神教は(天皇賛美を含みつつ)自分を絶対化し、平和でなく戦争を好む。キリスト教や聖書は危険である。この戦争は、大統領の信仰が起こす側面がある。しかし日本古来のアニミズムは平和へと導く」というふうなことではないでしょうか。
 知識層が信頼を置くといわれる新聞社の看板は、大きな影響を与えます。意見をもち、またそれを語るのは自由ですが、このように、偏見に近い見解が堂々とアピールされてよいのかどうか、疑問を感じます。
 キリスト教精神に支えられたフランスやロシアが、あくまでも戦争回避のため防火壁となろうとしたのに対して、平和に満ちたアニミズムに支えられた日本政府が、すべてアメリカの言うとおりです、とひたすら戦争を支持しているのはなぜなのか、説明して戴きたいものです。

 いずれにしても、やるせない……。

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