強い日本をもう一度
2004年1月30日

 国語の授業では、小学生でも、要旨をまとめるというものがあります。さすがに小学生相手です。表面に現れない意図を読み込む形での要旨を書かせるということは、まずありません。どこかに要点の隠れた文があり、それを抜き出すか、せいぜい重要な文を二、三つないで一文にまとめあげれば合格という程度のものになります。
 何度も取り上げる、産経新聞の「産経抄」ですが、これの要旨を作るとすれば、どんなふうにまとめられるでしょうか。

国会は相も変わらぬ不毛の論議をやっている。その一つが、野党側の「イラク戦争に大義はあったのか」という愚論である。大量破壊兵器が見つからない問題のむし返しだが、一体、戦争や革命に大義や正義というレッテルを張る必要があるのだろうか。▼中国の孟子は古くから「春秋に義戦なし」と喝破した。「彼れ、此より善きは則ち之あり」として。春秋は魯の国の史書だが、この天下に大義のある戦争なんぞあったためしはなかった。せいぜいこの戦争よりあの戦争の方がちょいとよかったくらいだという(諸橋轍次氏の解説)。▼在イタリアの作家・塩野七生さんも文藝春秋二月号の巻頭コラムに書いている。「歴史を振り返るならば戦争にはやたらと出会するが、そのうちの一つとして、客観的な大義に立って行われた戦争はない」「もとからして大義なるものが存在しないからだ」と。▼早い話が、宗教的原理主義のイデオロギーにかかれば、すべての戦争に自己正当化の大義がつけられていく。イスラム教ならなんでも「聖戦(ジハード)」になり、キリスト教ならなんでも「正義の戦争」になるごとく。▼かつて大東亜戦争は日本にとって“皇戦”だった。それが東京裁判では“侵略戦争”に一変し、しかしいままた東京裁判への疑問が起きて戦争の意義が問い直されている。イラク戦争に大義がないというのなら、ではサダム・フセインの独裁の側に正義があるとでもいうのか。▼不毛で無用なレッテル張りは後世のひまな史家にまかせ、日本の国会は国益を踏まえたイラク復興の現実的論議をすべきなのである。(産経抄2004年1月29日、下線は原文になし)

 模範解答であるかどうかは分かりませんが、短いものでは、「大義のある戦争はなかったので、日本の国会は国益のためにイラク復興を議論するべきである」のような感じになるでしょうか。小学生でもだいたい書けそうです。
 しかし高校生なら、その意図を汲み取って示すことも必要なときがあるでしょう。すると、「戦争に説明はいらないから、国が得するなら何をしてもよい」のように書く人が現れるかもしれません。
 およそ、この「産経抄」が偏見から書かれてあることは、下線を私が付けた部分を見るとまずはっきりするでしょう。片側のことを一方的に攻撃するために小馬鹿にしたような表現を多用していることがお分かりになると思います。何か議論しようという態度でいる人は、このような言葉を使うことはありません。端から相手を見下したような言葉遣いをするところには、対話は成り立たないからです。こうした言い回しは、意見を異とする相手が全面的に悪であり、自分が全面的に善であることを前提としており、しかもそれを論証しようなどという姿勢ではなく、最初から決まり切っているのだから、自分はいくら相手をコケにしてもよいという態度からしか、語り得ないような口調です。いやはや、いみじくもこの文章の中で言っているように、筆者は、自分の考えなら「なんでも」「正義の」声であるということから出発して言論の「戦争」を挑んでおり、そのことに「大義」という「不毛で無用なレッテル張り」などする必要もない、とせせら笑っているのですね。忙しいものです。文章中で、非難している相手のような考えも同時にもって二役ともこなしているようなものなのですから。
 筆者にとり、イラクとアメリカの戦争には説明は不要であり、日本が軍隊をそこに送ることに反対するような輩は、「問答無用」と退けられる以外に道はない、と考えられていることがよく分かります。

 困ったことに、これが筆者一人で済まないところが問題です。このような意見に対しては、健全な精神をお持ちの方はむかついてくるものですが、中には、強い日本を、無意識的にでも頭に浮かべて、そうだそうだと声を合わせるような人も現れてくるでしょう。言論の力というのは大きなものです。ことに、このように何十万、何百万という人の目に触れる文章は、大変な影響力をもちます。自分で最初からよく考えてみよう、と黙考する読者ばかりではありませんから、新聞がそう言っているならきっとそうだ、と信じる人の数は非常に多くの数にのぼることになるでしょう。
 あるメールマガジンを発行している牧師もそうです。年齢は、たぶんこの産経抄の筆者と同年代、つまり、若いときに戦争を体験している世代だと思われます。キリストに従いつつ、強い日本でなければならないということを、そのメルマガの中で公言しているのです。
 具合の悪いことに、この牧師、産経新聞を愛読しています。ずいぶん影響されているのでしょう。もちろん、その新聞の主張が自分の思いと合うから購読しているのでしょうが、ますますその新聞の偏った声が吹き込まれて、それが正しいと信じていくようになっているものと思われます。キリストに従うのと匹敵するくらいに、日本のことを愛している、という意味のことを文では書いていますが、この牧師は、戦前の教育や思想を相当に懐かしんでいます。
 たしかに、内村鑑三は、イエスと日本とを心にかけていました。それらの頭文字をとって、「二つのJ」と考えていたことは有名です。ですが、彼の行動は、イエスが先にあることには狂いはありませんでした。神が天の領域なら、日本は地の領域で、自分の置かれた使命のようなところに捉えられていたのではないでしょうか。
 産経抄の筆者、それに内村鑑三。かの牧師がそのどちらに近いところにいるかというと、ご自分では後者に近いとお考えのようですが、メルマガ読者の立場から見るに、前者に近くなっているように感じられてなりません。

 そもそもこの産経抄の文章は、前日に、高村正彦元外相が、「フセイン大統領は大量破壊兵器を廃棄したことを立証する責任があったが、最後まで立証責任を果たさなかった。(米英のイラク攻撃には)一応の大義がある」「イラクの広い国土でVXガスやサリンを見つけるのは至難の業だ。未来永劫見つからなくても大義はある」と語ったことを受けているのではないかと思われます。あるいは、先週末からのアメリカの動きで、調査団のケイ団長が辞任の上「大量の生物化学兵器が存在しているとは思えない」と発言したことを端緒に、アメリカの民主党が、大義を捏造したと大統領を批判するなどの動きが連なっている様を受けているのではないかと思われます。
 大義など問題ではない。イラクに大量破壊兵器がなかったとしても、この戦争は正しかったのであり、日本はむしろもっと兵隊を送るべきだった――筆者は、そういう考えの持ち主です。きっと、戦争を起こした考え方が不利になり、自分がこれまで主張してきた「大義」の旗色が悪くなってきたので、焦っているのでしょう。その焦りが、その大義そのものがなくても構わない、とにかくこれはイラクが悪いのであり日本は正しいのだ、天誅だ、と自分に言い聞かせようとしている言葉を、世間に言い放っているような文章、という分析が成り立ちます。
 そのために、ではフセインの方が正しいのか、と居直るような言葉を発していますし、またそのくらいしか反論の言葉は出ないのです。しかし、イラク戦争に大義があることと、フセインが正義であることとは、本来比較対照する内容ではありません。半世紀余り前の日本に比較するならば、天皇も政府もこの場合のフセインとそう大差のない位置にあるように見えるのは私だけかもしれませんが、日本が勢力を拡張しようとしていたのを抑えようとした米英の当時の大義と、今回は侵略云々にまるで縁のない行動をとっていたイラクを爆撃する大義とは、温度差が感じられるのは、私だけではないでしょう。また、この筆者はこの日の文章では直接記してはいないにしても、ほかでは記しているという事実を踏まえて言いますが、こうしたことと日本軍の派兵とは、ますますつながりのない事柄になります。
 ほかにもかの記述にはおかしな論点があります。かつて戦争に大義はなかった、という学者などの意見が正しいとしても、かつての戦争と今の戦争とを同列に置いてよいのかどうかは疑問があります。かつての戦争は一部の争いでしかありませんでしたが、今の時代の戦争は、世界全体のネットワークに影響し、一つの争いが全世界の破滅を招きかねない影響力をもっています。仮にかつての地域的な戦争には大義がなかった、あるいは要らなかったとしても、だからと言って、今の時代も大義はいらない、考えなくてよい、という結論には至りません。前提や背景が異なることを不問にした、虚偽の類推に過ぎません。
 さらに、イラクの隣のイランでは、地震のために阿鼻叫喚の中にあり、こちらの復興もまた切実な問題です。人道支援が必要であり、それが憲法の目指すところであるというのなら、イランを助けることは急がれることでありましょう。しかし、イランへの軍隊派遣のための費用の、千分の一もイランには出していないというではありませんか。「復興」「人道」などという言葉は、その言葉を目的として使われているのではなくて、別の目的のために用いられていることが明確になりませんか。

 戦後、少年Hは、ただちに大人たちに質問を投げかけました。戦争では勝つと思っていたか負けると思っていたか。負けると思った人はいつごろからか。戦争の責任は天皇にあるか。天皇を神さまだと信じていたかどうか(妹尾河童作『少年H』による)。結局、あまり訊くものではないと諫められましたが、この疑問は心から離れることはありませんでした。というのは、大人たちは、あまりにも早く考えを翻して、今度は民主主義がどうのと語り始めたではありませんか。多くの人は、心の中では負けると分かっていても、口に出さなかったのだということが、だんだん分かってきます。たしかに、口に出して言えることではない。そんなことをしたら、憲兵に連れて行かれることは請け合いでしょう。でも、少年の目はそうは見ません。少年Hは、なんか変だ、とずっと思いながら戦時を過ごしてきたのですから。本当に変だったら、教えてほしいではありませんか。そして、その変な空気の中で、若い命は、日本のためと、いわば犬死にし続けたのではありませんか。
 大人たちは、建前と本音をうまく使い分けたのかもしれません。そのようにして、うまく立ち回ることができるだけ、十分「おとな」だったのです。しかし、少年たちは違います。最初から、神国日本を教え込まれ、それが真実だとして育てられてきています。大人たちにとって建前でしかないものが、子どもたちには本音になってしまうのです。
 直接戦地に赴くことのなかった、その少年期に敗戦を迎えた世代は、そのような世代でした。気の毒と言えば気の毒です。教育の恐ろしさ、教育の影響の大きさ、教育者の責任の大きさを感じます。その世代の方々の心には、教え込まれたものが、真実として心に君臨しているのでしょう。戦後に民主主義の名をもって社会をリードしてきたにも拘わらず、魂の底では、軍国主義が真実なのだ、ということになっているのでしょう。まるで、それを否定すると、自分の思い出までがすべて否定されてしまうかのように思えて恐ろしいがために、という、もしかすると潜在意識の部分でそう働いている理由によって。ああ、それは当時の大人たちにとっては建前でしかなかったことなのですが。

 産経抄の筆者や、今の政治世界のリーダーたちは、この世代なのです。
 幼いころ、軍国主義の教育を素直に受けてきた人々なのです。あるグループは、それに騙された、と感じて、正反対の立場に急速に走って行きました。たぶん共産党などはそれにあたります。しかし、それはどこか自分の生い立ちに刻まれてしまった汚点を隠したいがための、トラウマへの反動のような部分があったかもしれません。アダルト・チルドレンとまで言うと、用語を濫用しているとお咎めを受けるかもしれませんけれど。
 ある意味で、同情します。自分のしてきたことが全部嘘だったと認めることは、人間の精神にとって、耐え難いものがあります。それはよく分かります。しかし、そうした不幸な生い立ちを背負ったがゆえに何をしてもよいとは思えません。今度は、その被害者の立場の人が、加害者となって、次の世代に害を及ぼすことがあるからです。アダルト・チルドレンが、自分の子どもに対してまた悪い振る舞いをすることがあるように。
 自分は被害者だ、という気分でいる人はときに恐ろしいものです。被害者だから、何をしても許されるという発想になりがちだからです。戦争で心に傷を負った人々のうちの一部が、半世紀を経て、その半世紀前に自分がたたき込まれた精神の方が実は正しかった、と突然言い始めると、同じ傷をもつ人々が、そうだそうだと賛同し始める。私は、このどこか変な空気を、そのように理解しています。
 このイラク派兵にこだわっている意見を集めてみてください。人道支援も憲法前文も、よく考えてみれば軍隊に制限される内容ではないのに、軍を派遣するのは何故か、考えてみてください。
 太平洋戦争のとき、日本人が信じ込まされ、あるいはモットーとしてたたき込まれたものは何だったでしょう。それは、古くは明治からの「富国強兵」の精神に支えられたものだったことでしょう。また、戦争で守ろうとしたものはおそらく天皇そのものというよりも「国体護持」であったとも言われています。戦時中の戦いはもちろんこの「国体護持」のためにすべて行われていたとも言えるでしょう。またこの「国体護持」のために、敗戦のときにも人々は暴動に走るようなことをしませんでした。
 産経抄の筆者がいみじくも書いています。「日本の国会は国益を踏まえたイラク復興の現実的論議をすべきなのである」と。国益とは、ただの利益の意味ではありますまい。この文の背後には、「国体護持」として教え込まれたものが蠢いているように、私には見えてならないのです。
 その世代的な不幸は理解しますが、だからといってそれゆえに、今度は加害者にならない道を探して戴けないでしょうか。自分の無意識な心の領域に少しでも気づいて。


追伸。30日の産経新聞の社説「主張」は、イギリスのブレア首相が弁護されたことをえらく喜んだ上で、やや興奮気味に次のような言葉で結ばれています。
「イラク戦争に関連しては、この手の無責任な報道や発言があまりにも多くはないか。裏付け根拠のない報道や発言がもつ悪影響の大きさを改めて指摘しておきたい」
 この言葉は、ぜひご自分でかみしめて戴きたい。


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