成人式の報道に聞く
2002年1月15日

 成人式の騒ぎについて、毎日新聞の報道(http://www.mainichi.co.jp)に耳を傾けました。
 13日には、
「福岡県田川市の田川文化センターで13日あった成人式で、新成人の男性2人が式典中に日本酒を飲んで騒いだ。」
「13日午後2時40分ごろ、那覇市の成人式が開かれていた那覇市民体育館前で、泡盛の酒だるを会場に持ち込もうとした少年らと警戒にあたっていた警察官らがもみあいになり、高校生1人を含む18〜19歳の少年5人が公務執行妨害の疑いで現行犯逮捕された。また、新成人1人も道交法違反容疑で逮捕された。」
 14日には、
「青森県五所川原市の式典では、成田守市長のあいさつ中、新成人の男性2人が突然、ステージに駆け上がり、マヨネーズを盛った紙皿を互いの顔に投げ合った。」
「宮崎市では、はかまやスーツ姿の男性数人が客席からステージに向けてクラッカーを2発鳴らしたり、紙テープを投げて妨害した。」
 聞いているだけで、いやな気持ちになってきます。
「もう、こんな成人式に意味はない。やめたほうがいい」と声高に語る識者がテレビに多く見られました。

 たかぱんは、それには反対です。
 新成人には、大きな祝福を与えたいと思います。新成人たちが、多少幼稚に見えようとも、甘えた気持ちであろうとも、今はおとなである自分たちも、当時はあまり違わないものだったというふうに思い出してみましょう。
 騒ぎを起こすのは、ほんのわずかな人間です。警察の不祥事が相次いだゆえに、警察をなくしたほうがよいですか? 教師の中に犯罪者が出たから、教師はすべてだめになったのですか? 一人の芸能人が麻薬を吸ったゆえに、芸能界は犯罪のるつぼなのですか?
 第一、成人式をなくしたら、彼らの騒ぎはなくなるのでしょうか。そうではないでしょう。彼らは、また別の場を探して、暴走的行為をして世間に自分の存在を示したいと考えています。たとえば車の暴走行為と同レベルの発想と行為にすぎません。彼らにとって、成人式というのは、たんに「場」でしかなく、成人式そのものが無意味になったというわけではないのです。
 校内暴力が起こるから学校は全廃すべきだ、というような意見に不自然さを感じるのと同様に、騒ぎを起こす者がいたから成人式は全廃すべきだ、という意見にも、たかぱんは不自然さを感じざるをえません。

 もしかすると、その識者自身、成人式で大きな祝福を受けたことがあるかもしれません。だとすれば、「学歴社会はナンセンスだ」ともっともらしく語る東大出身の官僚のように、自分の立場、自分の存立基盤というものを考えることのない無責任な発言でしかありません。
 そう言うたかぱんは、成人式には出席していません。祝福されるにあたらないなどと突っ張っていたたかぱんは、京都でその日、大学ラグビーをテレビで熱中して見ているだけでした。これもまた、自覚のない例かもしれませんが……。

 さて、報道で大きく取り上げられるような大きな騒ぎが、成人式の問題のすべてではありません。同じく毎日新聞には、こんな記事もありました。
「大津市の式典には、地元の小・中・高校生30人が受け付けや会場係として参加した。子供の目を意識させようという市の狙い通り、式典は静かに進行したが、受け付けを担当した中学1年の吉田由佳さん(13)は「式で携帯電話が鳴っていた。もう少しマナーを守ってほしい」と厳しい指摘。」
 これはもはや、新成人に限る問題ではありません。落ち着いて話が聞けないのは、もうかなり以前から挙げられている問題です。学校の授業参観のときも、ずうっとしゃべっている母親(父親は、数が少ないせいもあるが、喋ることはほとんどない)がいるのは周知の事実。塾の保護者会で、飲み物を片手にしている母親が、塾長に怒鳴られるという場面も見たことがあります。教会の礼拝のときにも、喋る人が皆無というわけではありません。
 聞くことのできない人々が増えているのは、たかぱんがさまざまな角度から指摘していることです。警告が警告でなくなり、それでいて、警告をしていないと後で責任が問われるという理由で、駅のエスカレーターには延々と、未就学児に対するような注意の放送が垂れ流しになっています。だからまた、誰もそんなものに耳を貸さなくなる。
 聖書には、神はかすかな、聞こえるか聞こえないか分からないほどの声で、静かに語られるという、美しい場面があります。

 異教の預言者たちとの戦いに勝利し、イスラエルの神の力を存分に表したエリヤが、王妃イゼベルの迫害を恐れて、荒れ野に逃げます。エリヤは洞穴の中で、神の声を聞きます。
「エリヤよ、ここで何をしているのか」
 神は、エリヤを力づけるために、エリヤの前に姿を現そうとされました。激しい風が起こり、岩が砕け散りました。しかし、風の中にエリヤは、神を見つけることはできませんでした。次に自身がありました。しかし地震の中にも、神は見いだせませんでした。最後に火が燃え上がりました。しかし、火の中にも、神はいませんでした。

 火の後に、静かにささやく声が聞こえた。
  (列王記上19:12, 新共同訳聖書・日本聖書協会)
 エリヤは、このとき神の声を聞き、やがて次の使命を受けます。エリヤは、そこから歩き始めたとき、後継者のエリシャを見いだして、神の仕事はさらに前進していくのです。

 新成人だけが成人の日ではないでしょう。「成人の日」なのですから、成人すべて、つまりおとなのすべてが、自分を顧みる日です。おとなもまた、静かな真実の声に、耳を傾けていきたいものです。それは、新成人の声に、あるいは子どもたちの心に、耳を傾けることであるのかもしれません。


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