白装束・サスケ・観察者
2003年5月8日


「白装束」と盛んに連呼するテレビ局もあれば、「白い集団」「白い服の……」などと苦労した表現をとっている局もあります。マスコミがストーカー的に騒いでいる連日の報道は、かつてのオウム真理教や幸福の科学、統一協会のときと似たやり方なのかもしれません。
 外部の人間にとって理解しがたいことを、彼らが主張している点は否めませんが、この追っかけは度が過ぎていないでしょうか。
 また異様なことを言っている……しかも、オウム真理教のときのように、やたら反撃したり危険なサインを出したりすることがないものだから、報道者たちは、そして視聴者もまた、一方的に彼らの非を挙げては攻撃しているように見受けられます。まるで、「いじめ」のようです。

 ノアの方舟のときと、似たものを感じる人もいらっしゃるでしょう。ノアが陸上に方舟を造り始めたとき、他の人々はあざ笑いました。そんなことをして何になる。世界が滅びるなんてことがあるものか。しかしノアは、独り神の声を聴き、それに従うことを続けていたのです。
 図式としては、パナウェーブ研究所のしていることは、このノアのしていることと違いありません。
 人々は、自分たちの「常識」で量った末、彼らをただいじめているだけなのかもしれません。

 岩手県議選盛岡選挙区で初当選した覆面レスラー、ザ・グレート・サスケ氏の覆面問題も、マスコミ好みの話題となっています。覆面をしたままで議会に参加することはままならぬ、という、従来の議員たちの反発を買っているからです。
 たしかに、覆面だと、ほんとうに選ばれたその人物が議会で活動しているのか、という本人認識の問題はあるでしょう。ならば、たんに顔でなく、別の方法ででも本人認識の手段はあるはずです。そもそも、顔を見せている人も、そっくりな別人が本人に成り代わり議員活動をしている可能性さえ、あるのではないでしょうか。顔が見えないという理由で完全に排除するには当たらないように思うのですが。
 ともあれ、自分たちと違うという点で、議員が、サスケ氏を排除しようとしています。いったい、議員とは何なのでしょう。住民が選挙で選んだ代表であるとすれば、住民が選出した、覆面をしたままのサスケ氏を排除する権利は、他の議員にはないように思いますが、如何でしょう。
 議会の品位を汚す、などと理由をつけてくる人もいるようですが、こうした「品位」というのは、これまで独占的にその場を取り仕切ってきた人が他を排除するために用いる、曖昧な概念ではないでしょうか。Y新聞の社長が、自分のことは棚に上げて、外国人の横綱を「品位がない」と一方的に非難し続けていたように。

  なお、
毎日新聞2003年5月9日の余録に、サスケ氏の件でキラリと光る文章がありました。

 自分で説明できないこと、自分たちと異質なものに対して、どうしても受け入れることのできないという思いでバリアを張るのは、ある意味で自然な人間の性質なのかもしれませんが、日本社会ではしばしばあることでした。
 ある社会では、異質なものがあるということを当然のこととして共存させることも可能でした。
 ある社会では、異質なものを徹底的に排除して、滅ぼすことしか考えませんでした。
 ある社会では、異質なものを、自分に合うように完全に変質されて取り入れて利用することを続けてきました。
 たぶん日本社会は古来、最後のやり方で、異質なものを利用してきたと思います。ですが、それは大きな単位でそうなのであって、狭い村落のような社会では、小さな共同体を守り存続させるためには、異質なものは徹底的に排除しなければなりませんでした。

 パナウェーブ研究所にしろ、サスケ氏にしろ、「気味が悪い」という感覚も伴っている可能性があります。
 実際、前者については、正直私もそういう感覚はあります。ですが私に言わせてみれば、彼らよりも迷惑で気味の悪い対象は、身近なところにいくらでもあります。歩きながらタバコを吸ったり、食堂や公共の場所で他人に煙を浴びせたりする輩はよほど迷惑ですし、電車内で携帯電話をひたすら操作している姿は、めちゃくちゃ気味悪いです。ウィンカーをつけずに曲がる車も、マンガをハンドルの上に置いて読みながら運転しているドライバーも、気味が悪いを通り超えて、怒りを感じます。
 たいていの場合、パナウェーブ研究所などを気味が悪いと観察している人々は、自分は正義の側にいる、と堅く信じています。自分は誰にも迷惑をかけていない、と。
 コラムの中で度々申し上げていますが、私は、いわゆる「巨悪」などと呼ばれる企業なり政治家なりも問題ではあるけれど、それを非難する「善良な」市民たちが平然と犯しつつ自分たちのしていることは大したことではない、と自ら許している悪のほうが、総計が遥かに大きいのではないか、と考えています。
 要するに、人間には「罪」があるのであり、自分の罪を認めないというのが、最も大きな罪である、ということです。

 パナウェーブ研究所の報道を見つめている人々。自分たちは、ただ報道しているだけ、観察しているだけ、という意識のようです。テレビの前の視聴者も、ただ傍観しているだけ、だと。
 観察者もまた、観測データに影響を及ぼすという、物理学上の真理が認識されたのはまだ近年のことであり、人間は、それまで、傍観している者は対象とは関係なく存在していると信じてきました。いえ、西洋文化の近代において、そうであったと言うべきかもしれません。いわゆる主観・客観の対立を明確にしたところから、世界と自分とが向き合い、世界から自分が外に定立しているというふうに信じてきた歴史の中では、当然の捉え方であったことでしょう。それを推進していく中で、自然法則をも人間の外側の存在のように理解し、人間という外部の目的のために操作していくこと――近代科学――が展開していきました。それはすばらしく効果のあることであり、さしあたり大成功を収めました。
 ですが、「人間自身もまた、その自然法則の一部に属している」という認識は、忘却されてしまったかのようでした。人間がさんざん利用していく自然や資源は、人間自身にも致命的な影響を与えかねないものにまで変質していくことが分かりました。環境が汚染され、資源が枯渇していくことは、人間自身を苦しめる結果につながるはずです。また、植物や動物を人間の食糧として利用するために改良や操作を重ねていくことにより、遺伝子操作を含め、生態系を変えていくようになり、果ては人間そのものまでクローンなどの対象になることに慌てるようになりました。

 見ているだけの私たちにも、何か責任があります。私たちもまた、パナウェーブ研究所を追いつめています。妄想癖があろうと、道路交通法に抵触することをしていようと、そして他の人々に理解しがたい考えをもっていようと、私たちがこんなに面白がる正当性は、もはやないとは思いませんか。


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