なぜ人を殺してはいけないのか。
2004年10月18日

  なぜ人を殺してはいけないのか。
 そういう問いが、かつて少年犯罪が問題になったときに、駆けめぐりました。そして良識ある大人たちは、それに対して何とか答えようとしましたが、決定的な答えを示すことはできませんでした。
 この問いは、その後あまり表だっては聞かれなくなりました。しかし、その問いの重さは、今なお人々の心に沈んで錨となっているかのように思われます。事ある毎に、その問いに言及されているからです。
 
 そもそもこの問いは、どちらを向いて問われているのかがはっきりしない気がします。すると、ある方向を予想しての解答が与えられても、別の方向へ逃れる言い訳が必ず用意されることになります。曖昧な質問を上司からぶつけられて、どう答えたらよいのか困惑している若い社員のように。
 ここでは、問いの方向を限定することによってのみ、まともな解答が準備されることになるものだと理解してみましょう。
 
 なぜ人を殺してはいけないのか。
 単純に答えるなら、まず「神が禁じているから」でよいと思います。これで答えになっているからです。もちろん、それは私が聖書の神を信じているから、ということに起因するのであるにしても。
 すると、当然疑問に思われることでしょう。そんな答えでは、「神を信じていない自分には納得できない」と。
 だがそれでも、先の答えは答えになっているのです。
 たとえば、こういうケースはどうでしょう。納得できない人がいるとすれば、その人は、たとえば次のような意図をもっている場合である、と。
「神が禁じていたとしても、私が誰かを殺すことを止めることはできないのはなぜか」
 実際、神を持ち出されたとしても、それで抑止力がかかるわけではありません。私は、そんな神の定めがあったとしても、それを無視して殺人をすることができます。
 けれどもこれは、「人を殺していけない理由は何か」の問いには関係がないことなのです。この人の行為・実践に関する問題であり、自由論の問題なのですから。つまりその問いは、「私に自由があるのはなぜか」という意味の問いであって、殺してよいか悪いかの問いとは異なるものでしかありません。
 そうなると、「神が禁じている」という理由説明は、この人の殺人を止めることはできないにしても、「なぜ人を殺してはいけないのか」の答えには確かになっていると言えます。
 
 神を持ち出したくない、神という前提なしで答えられないのか、という考え方もあることでしょう。そのときには、世の中で提出された、誠実な回答を目の前に持ってくることにしましょう。多くの心ある人々が考えた答えを以て、やはり上のような理由により、一つの解答が成り立つと考えることにしてみましょう。
 つまり、満点の答えが唯一あるのではなくて、決定的ではないかもしれないけれども、複数の解凍がってよいとするわけです。
 
 それでも自分が人を殺したいとします。するとその人は、自分で自分を神とすることになってゆくことになるでしょう。自分が世界の中心であり、自分が世界の運命を審くゆえに、それをしてよいのだと考えている、と見られるかもしれません。
 また、こういう考え方もあります。
「する」自由については、さしあたり止めることができなません。しかし「してよい」とするのは、別の理論です。そもそも人は、「してよい」という安心感がなければ、なかなか大それたことはできないものです。何らかの言い訳を自分自身に対して行い、これはやってよいのだ、という納得の下に、人は思いきったことを――とくに「悪」を――為すのです。誰それが悪いからこうなるのだ、という言い回しもまた、同様です。
 ただしそのこと自体が、これは「悪」だと自ら認めている前提を露呈していることにもなっています。
 
 先の問いに対して、答えが渋る、あるいは反論が優位になる場合、別の意図のせいである場合があるかもしれません。それは、たとえば、国威だかメンツだか分かりませんが、「国」という、抽象的なもののために、具体的な人の命を惜しまず捧げさせようとする、戦争賛美論者の存在です。戦争は、人を殺すことを肯定しなければ行うことができないからです。
 となると、「なぜ人を殺してはいけないか」の問いは、良識ある大人たちへ向けられる問いではなく、本来まず、軍備拡張や異国制圧、戦争肯定の人々が問われなければならないはずの問いなのでした。
 
 心ある大人は、殺してはならない理由を求める若者たちに、説得力のある答えを提示することができない自分を責めます。そして、これからの時代はどうなってゆくのだろうと胸を痛めます。
 けれども、すべての人が納得する答えが得られないからと言って、残念がる必要はありません。そもそも、すべての人が満足する解答など、存在しないのですから。
 すべての若者が「ああ、そうですか」と納得する答えを求めること自体が間違っている、とまで言って差し支えないでしょう。
 哲学というもの、あるいは政治や教育といったものは、いわばそんな答えのない問いを続ける事柄なのです。
 所詮、神ではない人間は、そうしたことしかできないのです。
 すべての人が納得できるのは、科学的真理のようなものでしょうが、その科学のように一定の規約の下で得られる真理というものは、約束された範囲内での言語の使い方でしか与えられないものなのです。
 
 優しい大人たちは、負い目を感じていました。「なぜ人を殺してはいけないのか」という若者たちの問いを貴重な者と受け止めたがゆえに、それに答えようともがきました。しかし、それは答えではない、と若者たちの返事を受けました。
 若者たちは、必ずしも落胆し、大人を軽蔑したわけではなかったのではないでしょうか。真剣に考えてくれる大人たちの姿に、人間とは何ぞやという問いを知ったのかもしれません。「ほら見ろ、答えられないじゃないか。大人なんて嘘っぱちだ。だから俺は人を殺してもいいんだぜ」などと短絡した若者は、ますほとんどいなかったわけです。
 それでも、一部の若者たちが、切実に、答えの出ない大人たちを嘆いたのも確かです。大人の側のマスコミは、慌てました。大人がまともに答えられないとはどういうことだ、と。
 殺すべきでないという理由を「懸命に」考えて提供してくれた大人たちは、実は、この問いに真摯に向かい合い、脂汗でも流しながら、考えてくれたのです。私たちは、この誠実な大人たちを嘆くどころか、むしろ尊敬すべきです。不十分な回答しかもたらしてくれなかったかもしれないけれども、その答えの中に、かけがえのない宝があるからです。
 若者に限らず、人は人として疑問に思うこうした問いを抱き、考え抜こうとします。その際、幾多の答えに、ときに賛同し、ときに反発しながらも、その宝のうちのどれかに、各自が出会うことができれば、それでよいのではありますまいか。
 
 そもそも、戦争賛美者だったら、この問いに対する答えすらもたず、殺さなければならないこともある、としたり顔でコメントするだけであったかもしれませんが。しかも、そのような人に限って、人が過ちを犯したことをことさらに隠し通そうとし、そんな歴史はなかったのだとムキになって反論したり、そうした歴史を扱った言論に一声に攻撃をしかけてくるものなのです。
 自分が、殺人を正当化しているがゆえに。
 その人は、自分で自分を神とするという、聖書が言う最悪の罪の中から逃れることができないでいる、気の毒な状態にある――聖書を知る人々は、そのように見ています。

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