矛盾と言葉のハーモニー
2003年8月8日

「持ち合わせのないときに限って、欲しいものに出会っちゃうのよね。そんなとき……」
 ある金融会社のコマーシャル。なるほど、マーフィーの法則ではないが、お金のないときに限って、よいものに出会うというのは、人生の皮肉な法則として拍手を送りたいくらい真実です。
 でも、この小気味よいフレーズを人気女優が語った後、お決まりのアナウンスが流れると、私の思考は停止してしまいます。
「ご利用は計画的に」
 え……前半では、衝動的な買い物のために金貸しから借りよと言っておきながら、最後に、計画的に借りよ、と言っている? 私はフリーズしてしまいました。
 決まりによって、コマーシャルの最後に、言えと命じられていることは理解できます。だが、いくらなんでも辻褄の合わないコピーをつなぐことはないでしょう。
 決まりによって、健康を損なうおそれがあるので云々、とタバコの箱に書いてあります。売る側も、吸う側も、まったくそれは意に介していないはずの言葉です。タバコを買わない一般の人々だけが、その言葉をかみしめて悔しがっているとしても。
 しかし、吸う者こそが一番被害者意識が強いのは確実です。どうも煙たがられて、とか、いつも悪者にされる、とか、迷惑だとでも言いたげな様子。いや、実際にそううそぶきます。自分が加害者であるという視点など、まるでありません。そしてだからこそ、人に煙を吹きかけて平気でいられるのです。
 矛盾とは、さまざまな局面で出てくるもののようです。

 言葉が軽んじられています。言葉の重さは、限りなくゼロに近づいています。
「危険です」
 しかし、それでやめる人がいますか。決まりを守ることがばかばかしく、守らないほうがカッコイイという見方が一般的となっていませんか。
 ウィンカーを出さずに曲がる車は、もう珍しくなくなりました。どうせ誰も見ていないし、迷惑しないとでも思っているのでしょう。残念ながら、現にこの私のように、見ている者がいるし、迷惑している者がいます。歩行者でさえ、ウィンカーを見て歩き方を変えることへの想像力が欠けているのか、それとも……。
「危ないよ」
 子どもの中にも、タイプが分かれるようです。それでピタッと行動を止め、以後それをしないように考える子。本来、子どもはたいてい皆そうでした。でも今は違います。笑って無視するのです。その場合、まったく耳に聞こえていない場合と、聞こえてわざとする場合とがあります。わざとする場合も直りにくいですが、耳に聞こえないタイプが怖いと思います。言葉による注意が、完全に言葉として認識されず、ただのBGMになっています。
 危ない、と言われてもそのまま突き進むところで、多くの事故が起こっています。だから私は教室では、子どもに、言葉を大切にすることを繰り返し繰り返し説いています。こちらも、大声を上げてそれを押しつけず、むしろ静かに語ります。静かに語ったほうが、子どもたちは耳を傾けることが多いようです。
 お母さんの小言も、たいていの子どもにはBGMになっています。意味を解そうとはしていません。それもまた、生活の知恵でしょう。たしかにすべての小言を真面目に聞いていては身が持たないかもしれないからです。でも、大切なことがそこに含まれているかもしれない。やはり、聴かなければならないのです。
 子どもの中には、特別反抗する姿勢をとる子もいます。でもそれは、ある意味で、ちゃんと聴いています。聴いているから、反抗できるのですから。聞いてさえいない場合は、反抗さえしません。黙殺する……というよりも、どだい聞こえていないわけです。

 禁止事項が記されていても、誰も見向きもしない場合があります。たしかに、中島義道氏が嫌うように、街にはあまりにもむだな注意書きが多いのは事実です。でもすべてが不要なのではありません。
 マンションの駐車場は機械式の立体駐車場となっています。車を出し入れしたら、必ず柵を下ろす決まりになっています。安全上、防犯上必要なことなので、管理組合もついに注意書きをその柵に二枚ずつ貼りました。ですが、閉めない人は閉めません。
 以前、閉めない人に注意しようとした(何もケンカを売ろうとしたわけではなく、ただひたすら私がこまめに柵を閉めていただけで、あとは「柵を閉めましょう」と小さな紙を貼っただけのことです。その人に何か言ったことはないのです)ら、えらい剣幕で怒鳴られたことがありました。その住人は、とにかく閉めませんでした。そして、隣の私の車に、自分の車のドアを毎回思い切り当て、幾つも幾つも傷を付けました。これは、他の車にはできないことですから、その住人の仕業です。それでも気が収まらないのか、ついに私の車のボンネットやサイドにキーで傷を何度もつけ、ついにワイパーを折るまでのことをしでかしました。証拠はありませんが、その住人がローンが払えず引っ越していってからは、そういった傷は一度もつけられていませんから間違いないと思われます。
 その後も、やはり柵を下ろさない住人がいます。そういった被害を受けた者は、開け放しにされることを嫌いますが、まったくそうしたことに気づきません。急いでいるから下ろせない、という理由もないでしょう。急いでいるから赤信号で止まらない車は、救急や消防や警察のほかにはないのですから(逃げる犯人はそうかもしれませんけど)。
 言葉は、無視されています。そして無視することで、だんだん良心の痛みも消えていきます。いえ、最初からないのかもしれません。

 私自身はどうだろうか、とも考えます。井に坐して天を観るごとく、狭い視野のくせして、無駄に吠えているだけなのかもしれません。抽象的な理想を掲げたところで、現実の力には何ひとつならない見識をもたらして自己満足しているだけなのかもしれません。
 言葉を操りながら、その言葉が罠となる。政治家もまた、そんな宿命を背負った職業なのでしょうか。矛盾は、どんな人間にもあります。矛盾を振り返っても、行き詰まるばかりですが、矛盾を矛盾として認めることを避けてごまかしているよりは、まだずっとまともではないか、と感じます。矛盾をいかにも明快に切り捨てて輝く理論を示すことは、ある意味で簡単ですが、どうも私はそれもできそうにない。それがまた、矛盾であったりするのですが……。
 いつか、ある言葉がずんと重みをもって感じられた時、それは、とてつもない後悔の最中である可能性があります。言葉を軽んじない生き方は、誠実さの一つの形だというのが、さしあたり私の感じ方だと言えます。

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パンダ          


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