メディアの自覚なき暴走
2003年11月5日

 もういやだなあ、と思います。こんなことばかり書きたくはないのです。
 また、あのコラムについてです。
 今回も、驚きを通り超えて、呆れてしまっています。度々取り上げている、産経新聞の「産経抄」。非論理的で強引に論敵を悪事と結びつけ、常に自分を正当化する主張をするそのペンの力の悪用は、いつ留まるのだろう、どうしてここまでくるのだろう、と恐ろしく感じてなりません。
 11月5日、あの河内長野の家族殺傷の青年たちについての論評がありました。公平を期するため、全文を引用することにします。


 「いってきます。捜さないで下さい。その方が幸せだから」。大阪・河内長野市一家殺傷事件の十八歳の私立大生とともに逮捕された十六歳の少女は、自分のホームページにそう書き込んでいた。お互いの両親を殺した後で心中するつもりだったそうだ。

 ▼青春期の若者が家庭とうまくいかないという話は珍しいことではない。家族とぎくしゃくしている事態もよくあることだ。親の権威に反抗し、親と口もきかないなどという。一家団欒(だんらん)のきれいごとは、テレビのホームドラマだけの風景といっていえないこともない。

 ▼自殺願望は男の学生の方に特に強く、「自分は十九か二十で死ぬ。その時はだれかを巻き添えにする」ともいっていた。だが女の生徒の方は成績もトップクラスで礼儀正しく、無断欠席などなかった。ただ自傷行為はあったという。

 ▼青年に反抗期はつきものだが、しかしこうまで家族を憎悪し、しかも実行に移したケースはめったにあることではない。なにが二人を思い詰めさせたのか。その“心の病”の背景には、いわゆるジェンダーフリー教育の影がゆらゆらと揺れている。

 ▼いや、不気味なほどぴったりと重なってくるのである。性差の否定や解消をめざしているこれらフェミニストたちは、自分が自分らしくあればいいという。「男らしさ」や「女らしさ」などよりも、大切なのは「自分らしさ」であり「人間らしさ」であると主張する。

 ▼「個の自立」や「子供の人権」ばかりを強調し、家族のきずなや家族の一員としての帰属感など必要ないと主張する。ようするに“家族の解体”をめざしているのだ。そういえば日本国憲法も「個人の尊厳」や「両性の平等」はうたうが、「家族を大切に」とは説いていないのである。

 もちろん、問題は後半です。この事件の背景は、この時点で何ら解明されていません。証言の食い違いが徐々に一つに集まりかけてはいるものの、何がそうさせたのか、盛んに取り上げるワイドショーでも、さすがに断定をすることはできていません。
 解説は不要でしょう。むちゃくちゃではありませんか? このとんでもないことを計画し実行した二人の事件は、ジェンダーフリー教育のせいだと言っているのです。
 他でも記しましたが、ある本によると、意見を言う人のタイプを大きく二つに分けるとき、次のようなことが言えるそうです。自分がすべて正しく相手がすべて間違っているとしか考えないタイプと、自分も相手も間違いを含むが自分の意見のほうが間違いがより少ないのではないかと考えるタイプとに分かれる、と。かの新聞のコラムが前者であることは、言うまでもありません。
 またその本には、いわゆる「正論」というものは、しばしばきれいごとを述べるが何の解決にもならないことや、それを正義とふりかざすことにより多くの危険へと導かれるということなども論じられていました。
 ジェンダーフリーに言いがかりをつけるだけのこんな主張(産経新聞の社説は「主張」という。因みに出版している月刊誌を『正論』という)が通るなら、私はこの新聞社の意見を世の中の悪事のすべてと結びつけることができると思います。こうして自分だけを正義として意見の合わない相手をすべての悪の原因だと断定するようなあり方は恐怖政治そのものだ、と。
 このコラムの筆者が、「ジェンダーフリー」を憎んでいるのは、よく分かっています。意見が異なることについて、とやかく言うつもりはありません。念を押しますが、私はどんなにひどい偏見でも、その意見を発言する権利を奪うつもりはありません。しかしこの偏見の持ち主が、何の根拠もなく自分と意見の合わない相手を誹謗中傷し、その存在を許さないことについては、やめてもらいたいと思っているのです。
 おそらく筆者は、ジェンダーフリーを誤解しています。いや、誤解のないように申し添えますが、私はジェンダーフリーを推進する考えは持ちませんし、かといってジェンダーフリーを排斥しようともしません。ジェンダーフリーの意見の行き過ぎにはついていけませんが、男女に差別を設けていて当然だという涼しい顔をすることはできません。男女の脳の構造が違うから男は子育てができないなどという生理学者の声に同調する気も起こりません。人は人として、置かれた立場や状況で、あるいはその人の個性によって、さまざまなケースがあるだろう、とは思います。神さまは一人一人を、価値ある存在としてお造りになった、と信じるがゆえに。ジェンダーフリーの意見をすべて排斥して、男なのだから云々、女はこういうものだ、というような自分の思いこみから人をすべて自分の思いつく限りの枠に決めようとするのは傲慢だと考えています。
「蟹は(自分の)甲羅に似せて穴を掘る」という言葉があります。あのコラムの筆者が、自分の家では、男はこうするべきで女はこうするべきだという教育をしています、というのなら、それはそれでよいのです。けれども、意見の合わない教育をしている家庭に対して、世の中の悪事はあなたたちの責任だ、と決めつけることを、メディアという権力の中で行うのは、ひどいことではありませんか。自分の甲羅に、無理矢理人を押し込めることをしているのに、気づいてほしいものです。
 もちろん、私自身、この場でその禁を犯しているかもしれない、という自戒を込めて、私は語っています。私の正義ではなく、私も相手も間違ってはいるが、私の指摘はこの場合必要なのだという気持ちと共に。


 少し趣旨は異なりますが、広報誌の中に、別の「正論」もありました。長崎の12歳の中学生が4歳の子を突き落として殺した事件についての反応です。
 福岡市の少年サポートチームの代表がコラムを寄稿していました。「長崎の12歳の少年の犯罪」についてほとんどが割かれた、かなり長い文章でした。
 そもそもここですでに「犯罪」と呼んでいることからして、認識の甘さまたは偏見が現れていると私は思います。直後に本人も「刑罰には問われない」と記している以上、それは「犯罪」と言い放つのには問題があるのではないでしょうか。恐らく気づいていないのです。それは、それを犯罪だと筆者が認識しているからです。この少年サポートチームの代表者は、ほんとうに少年をサポートする気持ちがあるのだろうか、と疑問が起こります。
 以下、この人の文章には、少年の孤独を理解したり共感したりしようという姿勢は微塵もみられませんでした。そしてひたすら原因を分析します。「親の過剰な愛」つまり甘やかしが、「少年の自己中心的性格の形成を助長した」と述べ、「対人不適応」が「孤立経験、不登校、引きこもり」となり、それが「少年犯罪の要因」だと印象づけているようにしか見えませんでした。
 因みに、この筆者は、しつこく「〜ではないだろうか」という文末を多用し、一見やわらかい雰囲気を出そうとしているように窺えますが、すべてにおいて断定しているのは、読めば明らかでした。
 そして、「子供のやさしさ、たくましさ、我慢強さを育むと同時に、自主性、協調性、社会性、とりわけ、人命尊重の心、人間愛をどう育てるかを見直し、子育てすることがわが子を非行や犯罪に走らせない道ではないだろうか」とお役所言葉が羅列する中で、私は、「自主性」と「協調性」とが平然と並べられていることに憤りを覚えました。どういう神経でこれらを並置するのか、理解できないからです。社会の姿を想像してください。自主性を現せば、協調性がない、と非難されるのです。協調性を重んじれば、自主性がないと指摘されるのです。きれいな響きの言葉を並べていますが、何の説明もなっていないことに、たぶん気づいてはいないのです。
 いずれにしても、こうしたタイプの少年とその親の心を突き落とすことばかりを自分が書き並べていることに、サポート代表と称する本人はまったく気づいていないということが、パラドックスのようで悲しいものです。あるいは、これは言い過ぎかもしれませんが、この本人は、自ら子育てで苦労したことがないのではないでしょうか。自分の子どもを妻が育てるのを傍観している姿が、どうしても想像されてしまいます。これは私もあまり言い過ぎないようにしないといけませんが。でも、建前ばかり並べて一刀両断に切り捨てるというのは、少なくとも、子育ての痛みをかみしめた人の書く文章ではありません。

 メディアの言葉が時に無意味に流れ、それでまた心ある人々を追い詰め苦しめるというのは、いかに言葉が軽く扱われているかということの証明です。国語(日本語)学者、文学者の仕事は、今ここに求められているのではないでしょうか。


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