からだで感じる日本語
2002年5月21日


 五月の澄みきった、晴れ渡った空を、新聞でもテレビでも「さつき晴れ」と称しているのが、どうにもなじめないでいます。
 旧暦の五月は梅雨の季節。梅雨の合間のひとときの晴れ間を「さつき晴れ」というものだと理解していたからです。
 どうやら、新しい意味が大手を振って歩いている様子。ですが、感覚的にはやはりなじめません。「犬も歩けば棒にあたる」が幸運に当たることと理解されたり、「情けは人のためならず」が人に情けをかけないほうがよいと思われたりするのは、語法の誤りなどの論議は別としても、感覚的に受け付けられないのですが、それと同様でしょうか。この分では、「小春日和」も、春の気候を呼ぶように使われる時代も遠くないかもしれません。

『常識として知っておきたい日本語』(柴田武/幻冬社)という本がひところよく売れていました。週間統計の一位も何度か続けていたようです。昔書いていたものを一つに集めただけの本で、特別に優れた解説でもないように思えましたが、この幻冬社という会社が、売るのがうまく、ベストセラーの仲間入りを果たしました。
 日本語については、老舗ともいえる金田一春彦さんのエッセイ風の読み物が、やはりよく読まれています。こちらは、内容的に味わいが深いものです。国語学者としてさまざまな辞典編集に携わった厚みのようなものを感じます。
 興味がわくものです。なにしろ、この日本でふつうに生活していれば誰でも知っているのが日本語、誰でも使っている言葉です。その正しい意味や由来・語源などには、すべての人が関心をもつ可能性があるわけです。ちょっとした評判で、皆が手に取るということになると、よく売れるということになるのでしょう。
『声に出して読みたい日本語』(斎藤孝/草思社)も好評だそうです。こちらは、由来がどうというのでなく、音読・暗唱により心とからだにしみこんでいく名文が集められたもの。
『からだが弾む日本語』(楠かつのり/宝島社)も面白い。「詩のボクシング」大会という、朗読のトーナメント戦を行う中で、言葉のパンチを体感した経験から集められた言葉。
 たとえば、「ジェットストリーム」の言葉が掲げられます。

遠い地平線が消えて
深々とした夜の闇に心を休めるとき
遙か雲海の上を
音もなく流れ去る気流は
たゆみない宇宙の営みを告げています
満天の星をいただく果てしない光の海を
豊かに流れゆく風に心をひらけば
きらめく星座の物語も聞こえてくる
夜のしじまのなんと饒舌なことでしょうか
光と影の境に消えていった遙かな地平線も
瞼に浮かんでまいります
……

 長嶋茂雄の「現役引退の挨拶」、あしたのジョーの「真っ白な灰」、「サスケ」や「木枯らし紋次郎」「隠密同心」の前口上など、郷愁のようなものを感じる方もいらっしゃることでしょう。
 そればかりでなく、「ブルーシャトー」の替え歌もあれば、「雨ニモマケズ」「はっぱふみふみ」など幅広く、言葉の調子が生き生きとした文が集められ、「千と千尋の神隠し」の歌詞にまで至ります。

 聖書も、「文語訳」の調子がよかった、とお思いの方が多いようです。明治以来の古い言葉ですが、たしかにコンパクトで、語る口調が軽快で、かつ威厳があります。戦後「口語訳」で分かりやすい言葉に直されたのは、理解の上ではよいことでしたが、調子の点では劣ったともみられています。新しい「新共同訳」は、リズムとしては、やや持ち直した感じがします。カトリックの解釈や訳語が随所に入っているせいなのかどうか分かりませんが、これから子どもたちや若い人はこの口調を受け継いでいくことになるのでしょう。
 思えば、聖書そのものも、語り伝えられたものを記録していったもの。琵琶法師の例にあるような日本におけるほどには、語りが主体ではなく、一点一画も誤らないように書き継がれた性格はあるでしょうが、聖書の朗読自体、ユダヤでも大きな意味がありました。

 さて、子どもたちに、次の世代に、どんな言葉をからだと心に刻み込ませるか。そこに、おとなの責任があります。
 それが果たして、教育勅語や、八紘一宇のスローガンであるべきなのか。いまのところ、「立法」という政治的側面で、国を統率しようと躍起になっている当局の動きは感じますが、教育現場は抵抗しているようです。もし教職員そして学校全体が、子どもたちにリズムよく、調子よく、昔渡った橋を逆戻りさせるような言葉と生き方を覚えさせていくような動きになったら、大変です。パレスチナの自爆テロのような姿とは、必ずしも遠い距離にあるのではないと思うのですが。


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