はじめにことばがあった
2001年12月4日


 他人に危害を与えるようなことをしてはならない。
 それが倫理の基本だと説く先生がいます。
 けれども、街を歩いていると、危険なことがたくさんあります。
 カサの持ち方を、知らない人が多くなりました。歩くとき、閉じたカサは、地面と垂直方向になるようにして、自分のからだの前に持つのが正解です。これだと、まず誰にも迷惑はかけません。しかし、カサが地面と平行になるように持っている人が多く、ごていねいにも、その手を振り動かしている人もいます。階段では、こうした持ち方は、まさに凶器を振り回しているのだと思います。
 危害を与えるかどうかは別として、電車通勤をしていると、不愉快なことにたくさん出会います。
 駅で宴会をする高校生は、以前より減りましたが、階段に座り込んだり、柱や壁によりかかりながら携帯電話をしたりしている若い人たちは相変わらず多く、体力がないとつくづく感じます。電車の中で座り込むのも、ほぼ若い世代の特徴です。体力測定の数字の統計報道を聞くまでもなく、どんどん不健康になっているのがはっきり分かります。
 また、マナーというのは、危害を与えるものではないのでしょうが、見ていられないこともたくさんあります。
 通路側の座席に座り、奥を開ける人。座席に荷物を置いて寝たふりをする人。靴を脱いで向かいの席に足を乗せるサラリーマンも迷惑ですが、靴のまま乗せるのもいるので、まだましに見えるのが、自分でも悲しく思えることがあります。
 窓やドアの外側を向いて立つという常識を知らない人も増えてきました。さすがにエレベータでドアの方に向くというのは、多くの場合守られているのですけれど。
 お見合い席で股を広げる男性(近頃、女子高校生でも見たことがある)は相変わらずいます。
 隣りと半席分ずつ開けて座り、座れるはずの人を何人も追い出している様子については、食糧や必要物資が行き渡らない世界の不均衡を見るような思いがします。
 避けようとしても避けられないのが、音。車内にとどろかせるかのように大声で話す人も、困りもの。仲間内は楽しいでしょうが、他人がそんな話を無理矢理聞かされるという暴力を受けていることにも気づきません。高校生などに限りません。大人も多いのです。観劇帰りのお母さんたちや、仕事のビジネスマンも。
 大人と言えば、りっぱに見える紳士にも、近寄れない部分があります。県庁や裁判所、そして警察署といったおじさんたちの、あのタバコ臭さは何でしょう。経験によると、歩行喫煙が一番ひどいのは、これらの役所の近辺の通勤時間帯です。みんな、歩きながらスパスパやり、危険な火種を元気に振り回して歩いています。
「ストレスがあるから仕方がない」
 そのように言い訳しますが、自分がストレスを受けるから、他人にストレスを与えて構わないという道徳を、自分で発明していらっしゃるようです。
 自分がやらないことは気に入らないのが常のようで、ケータイにも目はつぶれません。
 携帯電話を耳に当て、大声で話すのは、このごろはたいてい年上の人。携帯にはまったお父さんやお母さんがよく話しています。若者は、決まってメールなど、黙々としている。もちろん、メールであろうと、電波を出しているかぎり、横にペースメーカーを付けた人がいた場合、命にかかわる問題となります。
 命、というと、そんな大げさな、という声が聞こえてきそうです。けれども、起こらないとも限りません。しかも、もしも何かが起こったときの反応については、だいたい予想がついています。
「そんなはずじゃなかった」
「悪気はなかったんだ」
 いえ。警告を聞き入れないのは、明らかに「悪気」です。
 酒を飲んで運転するのも、歩きながらタバコを吸うのも、すべて「悪気」であり、警告を警告として受け止めない、甘えた態度です。
 警告の言葉が、こんなにも蔑ろにされているのは悲しく思います。
 しかし、ひとたび警告を止めると、今度は、「警告がなかったから分からなかった」という言い訳が出てくるのです。それだから、駅には、エスカレータの手すりを持てだの、雨の日はすべらないようにだの、ひとときも休みなくテープの声が流れています。誰もうるさいとは言いません。つまり、誰も聞いていないのです。
 すべて、警告というものが無意味な様子を示しています。
 日本には、「言霊」といって、ことばに魂があるという考え方がありました。もはやそれさえ死に絶えてしまったかのようです。ただし、言霊というのは、万物に霊があるという考えを背景にもっていますから、警告のことばという意味からすると、意図するところとだいぶずれてしまうかもしれません。
 ヨハネによる福音書の初めに、有名な部分があります。
     はじめにことばがあった。ことばは神であった。
 クリスマスの時期に、よくここが開かれるのはなぜでしょう。神とは「ことば」であるとは、どういう意味なのでしょう。人間の、しかも貧しい心のたかぱんには、それはよく分かりません。依然として隠されたままです。ただ、「ことば」は神からのものだというなら、自分の都合でことばを操るような真似はしたくないと願います。
 なにせ、電車の中でマナーが悪いなどといっても、それはたかぱん自身にあてはまることであるかもしれないからです。
 現に、こうしてことばで意見をぶつけるとき、それはひどい暴力にさえなります。幾度、ことばで人を傷つけてきたことでしょう。それこそ「悪気」はなかった、と言い訳しなければならない事態が、幾度あったことでしょう。
 ことばは、怖いものです。誤解を与えたほうが悪いのか、誤解したほうが悪いのか、それはともかく、ことばの誤解によって、不幸なことが起こります。争いや不仲も、小さなことばに発することが、どんなに多いことでしょう。
 クリスマスの時期、もういちどことばの重さについて、かみしめてみたい。それは、ひとり子を世に遣わした、しかも十字架の上にぼろぞうきんのようにさらし者にするために送った、その神の愛を感じることだと、思います。


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