人道という美名の陰にあるもの
2004年4月15日-5月8日

 4月半ばに、掲示板に自ら書き込んだ文章を中心に、ここで一度まとめておくことをお許しください。
 それは、イラクで誘拐事件が多発し、うち日本人3人については、自衛隊撤退を条件に解放するという声明が流れたものでした。当初は三日間以内にという厳しい回答要求でしたが、イラク側の宗教指導者の介入などで、解放するという情報が流れたりしたものの、解放の事実は見当たりませんでした。錯綜する情報に家族は焦燥し、政府は打つ手なく翻弄されていました。
 そんな中、例の産経新聞と讀賣新聞が、人質となった被害者の家族に対して、甚だしい非難を展開したのです。


1 見張りの塔からの風景。

だいたい予想した論評がありました。
イラクで3人の日本人が誘拐されたという知らせに対する、新聞社の意見。
産経に加えて讀賣もまた、人命より国威が優先だと強く主張し続けました。
どちらも、日本赤軍の事例を取り上げたのも偶然とは言えますまい。
かつて奥克彦在英国大使館大使と井ノ上正盛在イラク大使館一等書記官の
銃撃された事件では、二人の遺志を無駄にするなと彼らは叫んでいました。
それは個人を大切にしているかのように見えて、やはりただ国威だけを
優先するための材料としていたことがはっきり分かると思います。
(そんなことはない、人質の安全確保が第一だと論評しているではないか、と
その新聞社は反論するだろうと思います。でも口先と内実とが違うことは
私のような貧相な読解力の持ち主にも読みとれるのです。彼らの意見、
「三人の人質の救出に全力を挙げる必要がある」にどれほどの具体性や
切実さがこもっているというのでしょうか。つまりポーズだけなのです。)
讀賣の場合は、私が昨日懸念したとおり、
人質となった3人のほうが軽率であるとはっきり記していました。
その意味は、勝手に危険地域に入ったのだからその人命を守れなくても仕方がない、でしょう。

同時に産経新聞の産経抄では、福岡地裁の首相の靖国参拝違憲判決の判決要旨について、
『裁判官が日本を滅ぼす』という本を引用して
「裁判官の判断をありがたがる必要もないし、裁判の結果そのものを絶対視してはならないのである」と印象づけています。

自分の気に入らぬ裁判は無視せよ。国民の生命は国家の威信の前には小さなものだ。
こうした空気が日本を取り巻こうとしています。
こんな風景が見えるのを、悔しく思うし、危ないと指摘せざるをえません。

また、今回の誘拐に関して、韓国の牧師たちも同様に拘束されたそうですが、
こちらは解放されたという報道が入っています。
日本人の場合と、何がどう違うのでしょうか……。


2 人道という美名の陰に。

「三人の無謀と軽率さに対して、テレビ会見をみている限り、家族の側に自覚も反省もない」
「「個」と「公」のけじめの欠如」
これが、産経新聞の見解です(13日付産経抄)。

北朝鮮の拉致に関しては、被害者家族に最大の同情を寄せた新聞でした。
イラクの人道については支援を惜しまない新聞ですが、
日本の人道については上のような見解をもっています。

たんに口先における賛成・反対の陰にある恐ろしい思想、
何を重んじ何を軽んじているかのからくりを、見落としてはなりません。


3 人道という美名の陰に・2。

心労の家族に心ない中傷 留守電にまで「死ね」
 イラク日本人人質事件で心労の深まる3人の家族に、心ない中傷や嫌がらせが追い打ちをかけている。無言電話や「自業自得」と書かれたファクスなどは13日までで数十件。家族は留守番電話にするなどの対応に追い込まれ、警察は不測の事態に備え実家警備を強化した。「傷ついている人になぜそんなことを」と憤りの声が上がった。
 札幌市の今井紀明さん(18)の自宅は、あまりの嫌がらせ、中傷電話の多さから13日に留守番電話にしてNTTの電話番号案内もやめた。だが、今度は留守電に「死ね」と吹き込んで切ったり、仏具らしい「チーン」という音だけが繰り返し録音されたりした。
 北海道千歳市の高遠菜穂子さん(34)宅。強い調子で発言する弟妹の映像がテレビで流れた後「ふざけるんじゃねえ」などの電話が多数かかり、家の人は寝られなかった。(共同通信13日22:24)

一部のメディアが正論のごとく公言した暴力が、上のようなことを招いている、
と考えるのは行き過ぎでしょうか。良心があるのなら、責任くらいは感じるはずです。

ちなみに、14日現在Webでは、
たとえば讀賣新聞は、人質家族のサイドに立った記事は一つもありませんし、
産経新聞に至っては、人質家族のことは一切記事にしていません。それどころか、
「退避勧告が出ている危険なイラクに自らの意思で入国した3人の日本人の判断と行動は適切だったと思いますか?」を第一問とするアンケートをWeb上で実施しています。
もちろん、それは何のためであるか、どう誘導しようとしているか、お分かりだと思います。

人質となった3人もまた、人道のためにイラクに臨んだという理解をすることはできないのでしょうか。
言葉の暴力・いじめが、公然と行われています。

子どもたちの間から「いじめ」をなくすには、こうした社会的な暴力をなくせばよいのに……。


4 人道という美名の陰に・3。

「イラクで拉致事件に巻き込まれた国の中で、犯行グループでなく自国の政府を批判する家族や団体が際立つ国は日本だけ」。(産経新聞・産経抄14日付け)

 たとえば国連監視検証査察委員会がイラク侵攻を批判しています。
 フランスは最初から派兵していません。
 ポーランドは、英米にだまされたと公言しています。
 最も強くアメリカを支持してきたスペインは、撤退を公約する政権に交代しました。

 こういうと、「それは自国政府を批判しているのではない」と反論されそうです。言葉尻にしか興味がない場合は、こんなことを言ってくるのでしょう。

 アメリカ内部でも、次期大統領候補とされるケリー氏が批判しています。議会指導者たちも、ブッシュ大統領への批判を抑えられないことがあるようです。
 韓国野党は「イラク派兵再検討を促す1000万人署名運動」を開始しています。

 するとまさか、ある助教授の意見を引用しただけだ、と新聞社は言うのでしょうか。そんなことを言い始めたら、もう最後ですね。

 誘拐した側の声明文の中には、人質3人が、派兵した日本政府とはむしろ無関係で、イラクのために個人的に働いていた人物であることを認識したという部分もあったといいます。
 彼らが簡単に処刑されていないのは、何故でしょう。
 産経新聞は、社説でも「自己責任」だと強く批判しています。たぶんそこが、北朝鮮による拉致問題と異なるほぼ唯一の点だからでしょう。北朝鮮が憎いがゆえにこそ(この新聞社のWebは北朝鮮の動向を刻一刻睨んで紹介するサイトがある)、拉致被害者家族の味方をする一方、従来無関心だったイラクに急に人道のためだと言いつつ派兵することは賛美しつつ、さらにかねてから真にイラクを愛しイラクのためにとボランティアで自らイラクに飛び込んだ個人たちのことは、無謀で軽率だと非難しています。

 奇しくもその産経新聞の本日の社説はこう書いています。「国家を国民との対極におき、国民を抑圧する「悪しき権力」と一方的に決め付け」るのはいけない、と。これは失言でしょう。自分たちの立場を暴露してしまっていますね。これこそが、産経新聞のもつ国家観なのです。

 因みにこの社説もまたしきりに「テロリストの脅迫」と呼んでいますが、イラクの宗教指導者は、小泉首相が彼らを「テロリスト」と呼んだことが解放の障害の一つとなっている、と発言しています。こうなると、政府を批判する勢力はたいてい「テロリスト」と呼ばれうるかもしれないでしょう。


5 テロリストとは何か。

 日本外国特派員協会で、人質とされた人々の家族の会見が行われました。
 家族は、懸命に謝罪していました。それに先立ち、母親の独りがカメラの前で頭を下げて謝罪をしていますし、祖母は入院に近い措置をとることとなりました。
 誹謗と中傷の葉書や電話が殺到したからです。

 ドイツの特派員は、あまりにも謝罪を繰り返す家族らに対して、誰かに脅迫されているのかと質問しました。少し前まで、本心をマスコミに語っていた家族たちは、言葉を慎重に選びながら、何を言われても仕方がないのだと弁明に終始するのでした。でも、外国の特派員たちは分かっていました。それが、何を意味しているのかを。
 そのドイツの人は、後でこの家族らについて、こんなことを漏らしていました。
「まるで自由な国に生きていないような口ぶりだった」

 至言であるといえます。まったくその通りです。
 自由な国に生きていない。――誹謗や中傷は、自由な発言を抑えるでしょう。人を殺すような言葉が次々と、その家族に押し寄せることでしょう。タクシーが、十台以上呼ばれるけれども、家族は誰も頼んだ覚えがないそうです。誰かが騙ってタクシーを集めたのは明瞭です。
 言論で互いに意見をぶつけてよい結論が生まれるように努力しよう、というのが民主主義であり、自由主義の考えであるとしましょう。だからこそ、首相なども、誘拐犯をテロリストなどと呼んだに違いないと思います。言論によらず、交渉によらず、ただ力ずくで発言の自由も抑えようとするものですから。
 だとすれば、この被害者家族たちをびくびくさせ、謝罪というおよそ無関係で正反対のことをカメラの前でせざるをえないようにさせたものは、何でしょうか。それこそまさに、テロリストの手法ではないのでしょうか。自由を与えず、そう言わなければ次に何をされるか分からない、といった状況をつくってしまうがゆえに。
 お分かりでしょう。産経新聞などは、テロリストと同じ構造のことをやっているのです。自由というところから最も遠いところに居座り続け、そして与論をある一定の国粋的な分野に統一しようとしているわけです。これに反対する者は、言葉ででも暴力的に抑えつけることになります。議論などではない、相手は端的に悪なのであり、それは悪であるがゆえに、どう潰されても構わない存在なのです。これが、テロリストでなくて何でしょうか。

 以前からそうだったとは思います。けれどもここのところ、日本を是が非でも一つの色に塗り揃えようという動きが加速しているように思えてなりません。彼らは、反対意見には牙をむき、また非人間的な扱いと共にまともな人間ではないと軽蔑しまのす。そういう動きが、いかにも急ピッチに進んでいるのです。そのために、ある新聞はとくに力を発揮しています。弱い立場で元々強く意見を言える立場にない家族たちを、主義主張的な対立からひどく批判し、非難し、ぼろかすに言っているわけです。
 その張本人たちは、イラクの愛国者たちのことをテロリストと呼び、涼しい顔をしています。テロリストは自由を与えないのだという理由で、テロリストと呼ぶことは浄化されていくかのように感じています。となれば、この新聞たちもまた、テロリストと呼ばれても仕方のないスタンスで、この事件を見つめていることにならないでしょうか。


6 言論封じ。

 人質被害者の家族には、自由がない。
 外国特派員の言葉でした。さらに、彼らは見ぬいていました。何か脅迫を受けているのではないか、と。
 日本は脅迫の社会へと戻りつつあります。正義が基準でなく、仲間内の評判が行動の基準である社会では、そのようになる危険がつねに伴います。この社会は、正義を基準とする社会を批判します。自分が正義だと主張する者同士では、ぶつかるのが当たり前ではないか、と。そして、耐えざる争いを醜いと一蹴し、日本は寛容な国だと誇ります。それが日本にの伝統だと誇り、その伝統に対する批判の眼差しを絶対に許すことができません。それも、正義を基準とするのではありませんから、これが世間で当たり前のことだ、とでもいうように、つねに匿名でのみ批判者を排除します。これがこの国特有の「いじめ」の正体です。
 被害者家族は、政府に対してどう思うか、と改めて質問されたとき、目を伏せて、差し障りのない言葉を選んで答えるか、ノーコメントと返答することしかできませんでした。いじめた世間、さらに新聞社は、成功したのです。言論封じに。
 もちろん、家族の心情は、当然分かっています。一部の「正義」を重んじようとするマスコミが、その家族を代弁します。しかし、かの新聞社は、そのマスコミの名を表に出して、国賊呼ばわりするようにしてそうした動きを全否定し、排除しようとします。あるいは、嘲笑するのです。

 自衛隊を撤退することは、たしかに容易なことではありません。しかし、それができない理由として、「相手の思うつぼではないか」というのは、本来理由になっていません。相手の要求に従うことが、それほど許せないことなのでしょうか。この言葉が言えるのは、自分が、相手の要求に完全に反対の立場を強く推進する場合です。自分が、どちらでもいいと考えているような場合は、相手の声に従うことは、さほど困難なことではないのです。
 つまり政府は、それほどにイラクを愛しイラクのために危険を冒してイラクを支援したくてしたくて仕方がないのです。とにかくなんとあってもイラクに自衛隊を送らなければならないから、相手の思うつぼになることが絶対に許せないと考えています。――イラクを愛しているから? そういうわけでないことは、どなたもご存知のはず。ならば、自衛隊でも医療団でも、どうしても送り込まなければならない国が、世界にはたくさんあることになるでしょう。困難を抱えるある国に対しては、NPO組織に依頼して細々と支援させることしかしないのに、イラクにはどうしても大規模な軍組織を送って助けなければならないのです。

 言論封じの決め手は、しばしば「天皇」に関係してきます。天皇のことを悪く言うことがタブーであるということのほかに、自分の正当性を主張するために、天皇を持ち出すという場合があります。相対的な正義しかもたない日本が、どうしても何かの基準をもちたい、つまり何らかの絶対的な正義を決め手としてほしいという場合です。
 産経新聞の産経抄が15日付けで、その天皇を持ち出して感涙に耽っています。
「「自衛隊は給水や医療活動など、復興支援のために派遣されたものであり、無事にイラクの人びとに貢献することを願っております」。▼なんと、陛下は自衛隊のイラク派遣が人道支援であることを明言された。彼らは戦争に行ったのではなく、復興のために赴いたことを。この問題では国内にさまざまな見方があり、論議もわいている。しかし国の象徴である天皇陛下はここにきっぱりと一つの認識をお示しになった。……陛下、よくぞおっしゃって下さいました。」
 日本国憲法には次のように書かれてあります。

第三条【天皇の国事行為と内閣の責任】
 天皇の国事に関するすべての行為には、内閣の助言と承認を必要とし、内閣が、その責任を負ふ。
第七条【天皇の国事行為】
 天皇は、内閣の助言と承認により、国民のために、左の国事に関する行為を行ふ。
一〜八 略
九 外国の大使及び公使を接受すること。
(以下略)

 先の発言は、米副大統領夫妻との会見の際のものとして伝えられた言葉です。となれば天皇は、内閣の責任の及ぶ範囲となりますから、政府の見解をそのまま発言するよりほかないことになります。
 産経抄の詭弁がお分かりだと思います。
 あたかも天皇個人が自衛隊に賛成しているかのように感動しているとして、国民の共感を呼ぼうとしていますが、これは「論点先取の誤謬」といえるでしょう。政府の意見だから天皇が代弁しただけであるのを、天皇が発言したから政府が正しいと根拠づけようとするのですから。
 ただでさえ天皇は、政治的な発言はできないことになっているはずです。それは、政府の見解に反対することができないということです。天皇とはいったい「国民」であるのかどうか、憲法を読む限り、私には理解できません。基本的人権というものがありませんから。……いや、それは今とやかく言うことではありません。
 詭弁により、言論が封じられていく現実が、メディアでは見破られていないのが悔しいのです。

 被害者家族がほんとうに気の毒です。
 また、新たに拘束された人がいるとの知らせも伝わってきました。
 祈るばかりです。


7 おめでたいのか、世論操作か。

 15日夜の3人の人質の解放は、喜ばしい知らせでした。まだ別の人質がいるとのことで、すべてが解決したわけでもありませんし、たとえ日本人全員が解放されたとしても、他国の人を含め多くの人の苦しみや犠牲がこの戦争の爪痕の中に湧き起こる限り、安らかな気持ちにはなれるものではありません。いったい誰が悪いのかを考えても仕方がないのかもしれませんが、たんにイラクの元大統領だけを悪者にすることは難しいものと思われます。
 この解放が事件の解決ではなく、解決の始まりであることは、どの新聞社の見解にも共通であったように見えました。
 もしかすると、郡山総一郎さんが週刊朝日、あるいは朝日新聞社と関係が深かったせいもあるかもしれませんが、讀賣新聞や産経新聞は以前として3人を攻撃することを止めません。そればかりか、例の産経抄は、ほんとうに論理というものから一番遠いところで情報操作をしようとしているのか(でなければほんとうに論理というものを知らないのか)、妙な意見を16日付けで記していました。全文引用します。
 イラク人質被害者の家族が、十四日、東京・有楽町の日本外国特派員協会で記者会見したところ、厳しい質問を受けたという。「自衛隊撤退を要求していたが今も同じ立場か」「どの政党を支持しているのか」などなどと。▼家族はしばし沈黙し、「安否にかかわるような質問は避けてほしい」と答える場面もあったという。外国メディアの記者が厳しい質問をしたのは、「自己責任の原則」をこの事件の前提として考え、“甘えるな”と戒めているからだ。同時に、家族たちの思想的背景や環境を知りたいからだったろう。▼ところが日本のマスコミはそうではない。十五日もある新聞は「人質の家族/これ以上苦しめるな」と題した社説を掲げた。家族の元には“嫌がらせや中傷”の手紙や電話がどっと舞いこんでいるからだという。しかしそらぞらしいというか、見当違いというか、おかしな社説である。▼なぜなら家族の元に全国から“意見”が殺到した責任の半分は、そういう新聞自身にあるからだ。再三の退避勧告を無視してイラク入りした三人の無分別まるで反省がない家族の言動を、テレビや新聞はたしなめるどころか一緒になって政府を批判していた。▼視聴者や読者の反応を確かめてごらんなさい。ほとんどの人が強い不快感や違和感をおぼえている。家族の言動を助長していたのは、テレビのキャスターやコメンテーター、そして一部新聞の情緒的な社会面作りだったのである。▼家族への抗議には確かに心ない嫌がらせや中傷もあろうが、しかしその言動をたしなめる声も多く含まれているはずだ。そこで「ご迷惑を深くおわびします」というふうに改まってきたのだろう。三人はようやく解放されたが、示唆することは多い

 いつの間にか、外国メディアが、家族を責める立場に設定されています。そして家族が特別な「思想」をもっているかのように臭わせています。外国人記者たちが何のためにどういう意図で質問したかが、こんなにもはっきりとしていたのでしょうか。「厳しい」質問という言葉で素地をつくり、戒めている「からだ」と断言し、知りたい「からだったろう」とぼかしているかのようで、実は、それに決まっているとしか読ませない方法です。巧妙です。
 誹謗中傷をわざわざ“意見”と表記しています。つまりそれは中傷などではなく「正論」だと伝えたいのです。もちろん、“嫌がらせや中傷”と囲んでいるのも、実はそれらは悪いことではないのだよ、と言いたいがためです。普通と違う特別な意味をもたせるために別の記号で囲む、という使い方は、小学生も知っています。
 中傷が「どっと」舞いこんだとか、責任の「半分」とか、「ほとんど」の人が不快感をもったとか、「一部」新聞だとか、たしなめる声も「多く」含まれているとか、量を現す表現を多用しますが、それらは、何も根拠のない価値判断に過ぎず、自説を正当化するために使われています。「だってみんなやってんじゃん」のような使い方です。読み手の感情を操作するためのテクニックです。
 その一部新聞とは朝日や毎日などのことでしょうが、それらは「情緒的」で「そらぞらし」く、「見当違い」であり「おかしな」社説だと、多種多様にずばずば形容しています。しかし私に言わせれば、「情緒的」なのはまさにこのコラムのほうであって、感情操作や身代わり論法がしょっちゅう見いだれるように、非論理的、あるいは詭弁の文章が目立ちます。読んだときに生理的に嫌悪感を抱いたのは(これは私の情緒的な表現ですが言いたいことは違いますよ)、文章が論理的におかしく、さらにそれが一定の結論を感情として読者に植え付けようという意図が丸見えだったからです。
 家族の沈黙や発言を、自分の都合のいいように解釈しているのは、ほんとうにおめでたいのか、それともやはり情報操作か、判断しかねます。可能性は後者が高いと思いますけれども。家族が謝罪するように変わったのは、言論封じと圧力のためであることは、ちらりとニュース報道の映像を見ればはっきりしているのに、それを「改まってきた」と書けば、家族たちが最初は間違っていたが、それが正しく直された、の意味にしか取れないのを知っているために、やっているのだと思うわけです。
 もちろん、3人が「無分別」だと断定することを、誰がする権利があるのか、私には理解できませんし、まして家族の一員の無事を願う心を「まるで反省がない」と断罪することなど、私にはできません。この新聞の社説は、しきりにこのことを強調していました。つまり、ここで外国人記者に投影している心理は、この新聞社の意見だったわけです。自分たちの意見を、外国人記者がそう思っている、と書くのは、もはや詭弁以前の問題なのに、平気でそういうことをやっています。信じられません。
 最後の文、「示唆することは多い」という箇所は、これだけを取り出せば、正しいのです。たしかに間違いのない言葉でコラムを結べば、コラム全体が正しかったような印象を与えることができます。この箇所は、どんな意味にでも解することのできる言葉であって、このコラムニストの意見の通りに解釈する必要はまったくないのに、最後まで読んだら、そのように流されてしまいます。

 このコラムニストのことを、辛口の批評家であるとか、名文だとか持ち上げる人がいます。
 互いに仲間内で賞賛し、そうした思想に塗り替えていこうとする動きと重なって見えます。もしかすると最高の広告人であったと胃っていかもしれないゲッペルスも、こうして賞賛することをやっていたのではないでしょうか。


8 イラクからの眼差し。

 予想した通り、17日付け産経抄は書いてきました。いや、予想した域を全く出ることがありませんでした。その程度のことなら、私にだって書ける、というレベルのものしか書けなかったのでした。日本人として、日本だけから、イラクというよそ者の地での出来事を見てばかりいて、自分にとって見えるままをイラクの真実だと都合良く理解してしまえば、私と手、産経抄のようなことを書いたことでしょう。
 実際、救出された3人が息巻いたコメントというのは、私も一瞬「おや」と思わざるをえませんでした。
 しかし、それは私が正しいということではなかったのです。
 イラクの国に今自分がいるような気持ちで、事件のことをわずかな時間ですが想像してみました。すると、違う視野、違う世界が見えてきたのです。
 イラク人は何と言って、3人を解放してきたでしょう。これを、産経新聞は掲載していません。どうやら黙殺しています。自分に都合が悪いからです。産経新聞は、かつて毎日新聞が、天皇の発言の一部を記事として露わにしなかったことで、卑怯呼ばわりしています。しかし、自分は一部どころかまったく触れないことをしても構わないらしいそうです。
 イラクの宗教指導者は、日本国の自衛隊には反対で出て行ってほしいが、個人的な日本人はよくイラクのために尽くしてくれていた、ということで解放しているのです。
 3人は解放されるにあたり、イラクの地にいたし、イラクの論理の中で、口をついて出た言葉があのように日本人には奇異に聞こえたのです。ぬくぬくとしたテレビの前で聞いている私たちが、過酷な状況でイラク人の復興に尽力している人やイラクの声を世界に報道しようとしている人のことを、けしからんと批評している、その中に奇異に響いたのです。
 3人の救出のためにかかった費用を「自己責任」で請求しようという声まで出されているそうです。税金から一千億円を出して自衛隊を出したところが、イラクの人には歓迎されないものだから、イラクの人に歓迎されている3人の救出のためにかかった額――自衛隊のための1,2%かかったのでしょうか、よく分かりませんが――は、税金では賄えないと与党議員がかみついているのだそうです。
 事は、「人間の盾」として昨年イラクへ乗りこんだ人へも、今回と同様でけしからんと言及されていきます。実にいろいろな見方があるものです。

 人質にされていた3人は、イラク人に愛されていたようです。待遇もよかったようですし、指導者たちは友人だと賞賛しています。その空気の中で、不幸にもいくらかの間監禁されたものの、よい扱いを受けていた3人は、解放されたとき、つい、イラク人の側に立って発言したのです。いや、全身とっぷりとイラク人の中に浸かった中で、発言していたように感じます。イラク人の代弁をしていたわけです。
 政府や右派の人々は、それが我慢ならない様子。首相も、いきなり不快感を露わにしたと伝わってきていました。この小泉首相、高校生が多くの仲間の声を首相に届けるなどという話があったときも、もっと学校できちんと教えなきゃ、と諭すようにコメントしていました。この人がイラク人のために何かをすべきなのだ、と考えることができる人は幸せです。私はできません。
 問題なのは、こうして費用を出させようとか発言がけしからんとか口にしている人こそが、日本は寛容な国だ、と堂々と言いのけていることです。イスラエルやパレスチナのような一神教が争いを好み、非寛容の精神で成り立っていることを告げ、それに比較して日本では宗教戦争がなかった(ありました)とか争い好きではないなどと言って、日本が思想的に寛容な国であり、平和を好むなどと自己PRをしているのが問題だと言っているのです。
 3人はほんとうにまたイラクへ行くのでしょうか。訪れるのを禁止する動きも考えられているようです。でもきっとこう思っている人がいます。自分が正義そのものであり、その正義そのものの私が、おおらかに許しているのだから、やっぱり私たちは寛容なのだ、と。自分で自分のことを寛容だと自慢しているのです。
 3人がまた行ってよいのかどうかも、私にはよく分かりません。ただ、自分が正義で寛容だと吠えている者の中には、この危機がよく分かっていない人がいるようです。
 それに対して、日本人を解放したというイラクのその勢力のもつ「寛容さ」のほうに私は感銘を受けました。

 大騒ぎとなったこの人質事件でしたが、他の2名も解放されたということで、日本人の活動家は、イラク人に殺されることはありませんでした。それは何故か、宗教指導者が発言しています。すべてそのまま信用してよいかどうかは問題かもしれませんが、イラクの論理はそこに現れていることでしょう。彼らはイラクサイドで感覚し、思考し、行動していたらしいことが、私にもようやく分かってきました。
 日本からしてみれば、お騒がせで大迷惑な話かもしれないのですが。

 産経抄は19日で、自ら勝手に「もうあのニュースはたくさん、テレビを見るのもいやという声は案外多い」と断じました(曖昧な「多い」をここでも使っていることに注意)。でもどうやらそれは、この筆者の感情にほかならないようです。こうしたイラクの論理がしだいに報道で取り上げられるようになってきたからです。自衛隊の派兵がイラクで歓迎されていない傾向や、事件解決に日本政府が無力であったこととイスラムの宗教指導者の評判が上がったこと、そしておそらく人質たちが意地を張らずに謝意を示し始めたことなども重なって、産経抄の筆者の主張がだんだん通らなくなってきたことを意識してのものと思われます。「犯人のプロパガンダに乗った報道のあり方」が問題だと語ることで、自分たち意外の報道を否定し始めたのは、ほとんどカルト宗教的な発想です。
 日本人の中に、アメリカの攻撃や自国の自衛隊派遣にすら反対する声が強く挙がっていることが、イラクの宗教指導者を動かしたと言われています。産経抄にしてみれば、これが許せないし、信じたくないのでしょう。
 イラクの論理をもっと報道することがよいのです。多様な価値観を認め、自分と異なる見解に対する寛容さをもつことが、少しでも健全な言論の場を促すことでしょう。
 たとえば朝日新聞は、時にどうかと思う意見も言い放ちますが、相手の意見に対しては尊重の態度をとることを外しません。問答無用で相手がバカだ、という語り口調はしません。ですから、産経抄の筆者も、いくらかでもそうした姿勢に近づく努力をするならば、せっかくの文才がよい方向に活かされていくのではないでしょうか。一方的なプロパガンダの道具として人々を扇動するような悪魔の武器になることなく。


9 年金未納問題。

 少し逸れた話題になりますが、関係事項として触れておきます。

 昨日5月7日に日本を駆けめぐったニュースの一つに、福田官房長官が年金保険料未納問題で引責辞任をしたというものがありました。
 あれだけイラク人質たちに「自己責任」を強要していた人です。その割にはずいぶん遅い辞任ではないでしょうか。
 ご本人もそうですが、制度の問題、つまり複雑で分かりにくいとか、ついうっかりとか、払っていると思っていたとか、議員たちは一斉に口を開いています。謝罪を口にしながらも、必ずそういった言葉のどれかを共に吐いています。
 残念ながら、ご本人を初め多くの閣僚が叫び続けた「自己責任」という言葉の前には、言い訳にすらなりません。自分の発した言葉に、自分が引っかかっています。民主党の代表もまた、別の意味でそうなのですが。

 ところで元官房長官の話ですが、果たして未納の分は支払ったのでしょうか。イラクの人質たちには、その「自己責任」のゆえに費用を払わせた人です。未納のままでいられるとすれば、ずいぶん国会議員というのは「自己責任」の要らない地位のようです。もしかすると議員年金などという美味しいものがあるから、国民年金になどあまり関心がないということなのかもしれません。
 そしてそのメンバーが、年金制度を決定する権利があるわけです。何かおかしくないでしょうか。いや、もっと言わせてもらいましょう。年金制度の複雑さの問題があるという弁解が口々に出てきますけれど、その制度を作っているのは、ほかならぬ自分たち政治家ではないのですか。

 また、落ち着いてよく元官房長官の声を聞いてみましょう。早口で目を上げずにさらりと言って会見を終わりにしたその言葉です。「公表までの対応の仕方に不手際があり、政府のスポークスマンとして政治不信を増幅したことをおわびする」と言っているのです。「未納」という、一種の「脱税」をお詫びしてはいないわけですね。そして、某週刊誌の特ダネにより、これまで発表していた以前にも、未納期間が長きにわたってあったことも発覚しました。むしろそれは個人情報だから、漏らした奴は許せないという感じのようですけれど。
 官房長官の辞任という、とてつもない事態を迎えても、内閣はそう慌てた様子は見せません。当然です。飛車を捨てて将棋に勝つという展開があると思いますが、与党は、福田氏を捨てて逆に政治で勝つ態勢に出たのです。先手を取って、民主党に対して有利な展開をリードすることができるようになってきたのです。
 これでよいのでしょうか。すでに社会保険庁には支払いを拒むぞとの抗議が殺到しているといいます。こうやって与党の勝つ政治という盤上に、残念ながら国民は不在なのです。


10 虐待で苦しんでいるのは誰か。

 イラクでは今、米兵によるイラク人虐待が大きな渦となって跳ね返ってきています。戦争という場では、多かれ少なかれ起こっていることのはずです。さして不思議だとは思いません。しかし、だからやってよいなどとも思いません。アメリカや、それに同調している日本が、善いことばかりしているのではない、ということの一つの証拠となってしまったことになりましょう。
 それに、イラクのためなどというふれこみで、その実イラクの人の立場に立って考えているわけではないことが証明されているようにも見えます。
 例の産経抄では、5月7日付けにおいて、この虐待事件で、「いまだれよりも深く傷ついているのは、ほかならぬ米国の市民たちかもしれない」などと記しています。一文だけ取り上げるのはフェアでないと思いますが、「もしこれらが事実なら」とか「捏造の疑いがある」とか、「徹底的な事実調査をし、真相の公表をしてもらいたい」とかいう言葉は、同じ一つの方向を目指して語られている言葉です。そしてこの最後のものの理由として、「米国民主主義の真価と市民の名誉がかかっている問題だからである」として文章を結んでいます。
 文章のどこを見ても、イラクの人の立場に立った苦しみや悔しさのようなものを想像しているようには全く思えません。こうした構えだからこそ、そのイラクの人の苦しみのために何とかしようと現地に向かった、あの人質たちの胸の内もまったく理解できないものであるわけです。
 どうしてか? 北朝鮮に同調する国の新聞が、拉致問題を論じつつ、「いまだれよりも深く傷ついているのは、ほかならぬ北朝鮮の市民たちかもしれない」と書かれたら、このコラムニストは、どう感じるのでしょう。「もしこれらが事実なら」とか「捏造の疑いがある」とかいう言葉と一緒に。

 ますます謎は解けていき、右派と呼ばれる人々がどんなスタンスでいるかがはっきりしてきました。


 今、かの虐待が、戦争という場では、多かれ少なかれ起こっていることであり、さして不思議だとは思わない、と述べました。過激な発言であり、一部の方の気分を悪くすることだろうと思います。自分でも、ひどい表現だと思います。ですが、このような言い方をすることによって、助かる人もあるのではないか、という思いはあります。
 これは、戦争が人を狂気にする、と言っていることなのです。
 従軍慰安婦や南京虐殺はなかった、と言い張る人がいます。しばしばそれは、身内の者、自分の親や祖父がそんなことに関わっているはずがない、という感情からくる場合があります。そのために、慰安婦は自ら志願したのだとか、虐殺は架空だとか言いたくなるし、信じたくなるわけです。しかし、それらが個人の責任と言うよりも、戦争が狂気にさせたのだ、というのが私がここで述べている方向ですから、そうした忌まわしい出来事が、戦争というものの責任になるという意味では、個人が責められることがない、と理解して戴きたいのです。
 戦争の状況になれば、通常とは違う状態の心になります。そうしないと、やっていけません。通常の人格を捨てないと、人を殺せるものではないでしょう。私もそういう体験はありませんが、多くの優れた文学作品がそうした心理を鮮やかに描いています。その意味でも、文学のもつ価値は偉大だと思います。戦争という特殊な状況の中で、人は変貌します。戦争が残虐なことをさせるのです。
 逆に言うと、その戦争を起こした者に責任が帰せられると考えます。起こした本人は、たいてい戦場には行かず、いわば温々とした場所で開戦を企て、兵士を送り、戦況を観察しています。また、戦争を煽る言論もまた同様です。かの新聞が、つねに高いところから見下ろすようにして煽るばかりの言論を繰り返しているとすれば、当然責任が波及してきます。とすれば、このイラク人の虐待に対して、アメリカの攻撃――その発端が根拠のないものであったことが次第に明らかになってきています――を支持して積極的に応援した新聞は――彼らは言った、ではフセインの方が正しいと言うのか、と。だがそんな議論ではないはず。それは自分が正義だと言っているだけのものだ――、責任を負うことになるのではないか、と言っているのです。
 そんな責任があるものか、と思う方へ。あるからこそ、オウム真理教の麻原という男が裁かれているのではありませんか。地下鉄サリン事件の実行犯の中で、目が覚めて悔恨に頭を下げる者がいくらかでも許されているのに比べて、直接何もしていない麻原彰晃が何故一番重い刑を受けるべきと考えられているのでしょうか。

 続報があれば、このコラムは延長されるかもしれません。


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