傍若無人
2002年10月23日

 だいたい、電車の中で音を出すということはタブーのはず。
 街中でお喋りをするのとは訳が違います。一瞬のすれ違いの場合、他人が話すその声は、すうっと通り過ぎて行くだけ。ほんのわずかな時間、うるさいな、と思っても、そこだけの問題となります。しかし、電車という密室の中では、その声が、音が、ずうっとつきまといます。そして、それを避けるために逃げ出せないことがしばしばです。うまく他の車両に移ることができたとしても、そこでまた騒音があるので、逃げ場がなくなってしまいます……。
 誰も、昨日あなたが何を食べたかという話など聞かされたくないのです。
 誰も、駅が新しくなった風景にはもう驚いたりしていないのです。
 
 いつからか、「傍若無人」という言葉が聞かれなくなりました。
 農耕民族は和の文化だといい、仲間うちの人間関係を第一とする原理から倫理が構築されていく、という理解があるので、「傍若無人」という言葉は、それに反する人間を非難するためによく用いられた言葉でした。しかし他方、仲間と自覚されず、かといって「世間」というほど漠然と遠方に控えているわけでもない、「他人」のレベルの人々に対しては、実に迷惑を気にしないことが平気でできる、という弱点もよく指摘されました。従来、電車で同席するような人々は、そうしたたんなる「他人」の域ではないと意識されていましたが、近年はどうやら完全に「他人」となっており、もっと悪い言葉で言えば「モノ」としか意識されていません。どんなに大声で、あるいは自分だけの好きな音楽をチャカチャカ聞かせても気にせず、自分の内輪の話をガンガン聞かせても恥ずかしくも何ともないわけです。まわりにいる存在を「人」とは考えていないのですから。
 すでに「傍若無人」という言葉も、死語となっているのでしょうか。
 
 若い人に腹を立て、注意をしようとされる方がいます。むしろ、見て見ぬふりをする多くの人に対しても怒りを感じつつ、ちゃんと注意しないからいけないのだ、ということで、関わろうとする方がいます。それはそれで、立派なことです。やはり、他人に無関心でいるという意味では、当の迷惑をかける方もそうですが、見て見ぬふりをする者たちも、同罪と呼ばれるのももっともなことです。
 とくに年配の方、ご注意ください。年齢が下がるにつれ、驚異(脅威)を感じるほどに、語彙が減っています。言葉が通じません。余談ですが、方言もそうです。福岡でも「つやつけんな」や「しけとう」という程度の博多弁さえ、通じなくなっています。それは、かつて私たちが若いころ、おじさんたちの方言が古くさくてうざったく思えたことを、立場を逆にしただけのことになるのかもしれませんが。
 言葉が使われなくなるということは、その概念、その知恵も気づかれないということです。このくらい常識じゃないか、と一人憤っても、それにまったく気がついていないというのが現状なのです。「エレベータでも電車でも、出口のドアの方を向いて立つ」という程度の基本的なルールも、知らない人が多いわけです。
 このような例を数え上げると、際限がありません。
 
 自分のことは分かってほしいが、他人の立場になって想像するのはまっぴらだ――そんなふうに、思っているかのようです。でもたとえば、電車の中で携帯を使うこと(話すことはもちろん、送受信も)の危険性や迷惑については、ついぞ想像できないのですから、たぶん「想像する力」さえも、あるのかどうか、怪しいものです。注意されると自分のほうが被害者のように錯覚し、自分が暴力をふるっているなど、夢にも思っていないのでしょう。音は、他人に容赦なく襲いかかり、避けることが難しい状態で影響を与え続けますから、十分暴力であるというのに。
 そういえば、「たばこはすでに多くの税金がかけられていて、何兆円も国のために貢献しているので、これ以上税率を上げることに反対します」という意見広告が、新聞に大きく出ていました。もちろん、たばこ産業の類が出しているものです。よく本音が現れています。そして、愚かなことです。貢献額より、損害を与えている額のほうが遙かに多いことには、そこでは触れないのです。被害者意識しか持たないという、人間の愚かさは、こんな意見広告からも、はっきりと読みとることができます。
 
 さらに、こうして評論している言葉もまた、きっと誰かを傷つけていることになるのでしょう。言葉も十分、暴力となりうるものなのですから。ただ、ソクラテスではありませんが、私は、私の言葉が加害する可能性を意識しているのに対して、たばこの意見や、電車内の音の主は、たぶん、それがないという点が、違うのではないでしょうか。
 そこに人がいて、その人がどう感じるか、について少しでも想像する力があるならば、「傍若無人」という言葉で意見を戦わすことが可能です。変な説明ですが、他人を意識している人物に対してのみ、「傍若無人」という言葉が生きてはたらきます。最初から他人という存在をまったく意識していないような精神には、「傍若無人」という言葉による非難自体、無意味なものとなってしまうのです。もともと他人など意識にないのですから、いまさら「人が無いみたいだよ」などという非難すら通じず、ナンセンスでしかないのです。


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