安心と安全
2003年1月14日

 2004年の年明けに、鳥インフルエンザの騒動がもちあがりました。山口県で高病原性鳥インフルエンザに感染したニワトリが発見されたというのです。国内では79年ぶりだということでした。
 事の顛末や、このインフルエンザそのものについては、知識のない私がここで又聞きを展開するのは無責任というものなので、ご自分でご確認ください。
 一部では、「風評」が心配だと語っています。
 事実、大手スーパーでは店頭から鶏肉などが撤去されました。マヨネーズメーカーは安全性を発表しましたが、株が下がりました。卵の拒否へと動くと思われたからです。
 ただし、小売店の多くは、そう簡単に鶏肉や鶏卵をなくすわけにはいかないようです。当然でしょう。そして専門家も各方面から、加熱するならば鶏肉も卵も安全であると報告しています。
 大手では、鶏肉を取り払っても、経営に重大な打撃を及ぼすということはないのでしょう。また、何かあったときの責任を回避できるというのもありましょうが、たぶん、「それだけ消費者の安全を配慮している」というイメージ作りが大切なのでしょう。某貿易会社が、一桁誤って表示したパソコンの価格を、その誤った1/10の安価で販売して名を挙げたように。つまり、大手スーパーは、この風評を、よい方に利用しようとしたのでしょう。
 しかしその分、鶏肉はよけいに悪者になっていきました。生産業者も販売店も、この大手の自利行為のために、よけいに悪くなったイメージを背負うことになってしまいました。意図したかどうかは分かりません(している部分があると私は推測します)が、小売店を潰す副産物を得ることになるのかもしれません。
 牛肉の問題もそうでした。2003年末に発表された、たった一頭のアメリカのBSE感染牛のニュースは、牛肉料理専門店を根本から揺るがす知らせとなりました。店頭から牛肉がなくなったり、消費者が気味悪がって買わなくなったりしました。なんとなく気味が悪いから、という理由で、敬遠されてしまうのです。
 カイワレ大根や、ほうれん草など、一部の噂や特定のニュースソースからの声だけで、生産者が泣いたことは、数多くあります。それらのうちのいくらかは、しばらくたつとまた何の問題もないかのように食卓の上るようになったものもあります。濡れ衣をかぶったものはそれで当然なのですが、問題の残る、あるいはまた問題の起こる可能性の高いものについても、七十五日の噂を経れば、人は騒ぎを忘れて食べるようになるようです。それなら、最初から何も気にしないで食べればよいものを。
 
 大切にしているのは、「安全」ではない。日本人は、ただ「安心」を得たいだけだ。
 そう評している人がいました。
 安全の基準を、知者や権威者がきっちり示し、責任をとる形で示してくれるなら、その基準を信じて人々は行動することができます。なるほど、それは合理的です。しかし、ともすれば周りの人々の目のほうが気になり、「近所の人々がそうするなら家もそうする」式の考えをとっているというのです。
 表向きは、合理的思考をとるようになったとか、個人主義に毒されているとか口にしながらも、現実には、以前として隣組的な発想でしか行動していない、というわけでしょうか。
 かつてビートたけしが流行らせたと言われる「赤信号、みんなで渡ればこわくない」のギャグが、この状況を説明するのに最も有効であるのかもしれません。
 定言命法というカント哲学の用語があって、いかにもドイツ精神を表す言葉のようなものなのですが、どういう事情があるにせよ守らなければならない原則、ルールのようなことをいいます。ただでさえ、西欧語では、「原理」から成立する「原則」、そこから派生する「規則」というものは、例外を許さないものです。日本語でいう「原則として」というような考え方は、不謹慎極まりない用法ということになります。
 日本人は、こうした原則を守ることをよしとはしないで、つねに周りとの折り合いを重視して行動する、という性質を表現したものなのでしょう。
 だから、気分で判断するしかなく、今回の鳥インフルエンザの騒動にしても、「安全」の面での冷静な分析より先に、「安心」できない、つまり不安であるという動機からまず始めようとしているという説明です。
 
 人々と協調するということは大切なことです。しかし、私の目から見るときに、一見強調を大切にしているかのように行動している人々が、実はたんに自分が責任を負いたくないために周りと同一行動をとっている様子や、さらに一歩皆の前から引けば、つねに人のせいにして不満をぶちまけているだけの様子などを、世の中でよく見るような気がします。逆に、原理原則で動く人というのは、杓子定規のように見られがちであるにも拘わらず、一旦多数決で決定された一般意志に対しては、元々自分の意にそぐわないことであったとしても、きちんと従うという姿がしばしば見られるようにも思えます。
 私が、人の意見に安易に乗らないタイプなので、これはひいき目な見方なのかもしれませんが。
 だからこそ、聖書の精神が理解しやすかったともいえましょう。聖書は、周りの人間に合わせろという考え方とはずいぶん違うからです。
「あなたたちはだから、主を畏れ、真心を込め真実をもって彼に仕え、あなたたちの先祖が川の向こう側やエジプトで仕えていた神々を除き去って、主に仕えなさい。もし主に仕えたくないというならば、川の向こう側にいたあなたたちの先祖が仕えていた神々でも、あるいは今、あなたたちが住んでいる土地のアモリ人の神々でも、仕えたいと思うものを、今日、自分で選びなさい。ただし、わたしとわたしの家は主に仕えます。」(ヨシュア記24:14-15,新共同訳聖書-日本聖書協会)
 モーセの後を継いだリーダーのヨシュアでさえ、イスラエルの民に、信仰を強要はしなかった様子が描かれています。文字通りにそうかは別として、信仰は個人の問題であるという意識は、旧約聖書のあちこちに見られるものです。
 たしかに、歴史の中では、キリスト教という組織や集団が、ひどいことをしてきたという面もあります。でもまた、たとえ他人がどうであれ、自分としてはこれを神から命じられた、これをするのが自分の使命だ、という意識で立ち上がり何かをなした人が数多く出ているというのも事実です。政治的にも科学的にも、そうした気概が、改革を遂げてきたように見受けられます。
 
 鳥インフルエンザについては、その肉を食べる云々よりも、直接感染するというほうが問題のようです。香港での死亡例を挙げながら、食用でなく空気感染のほうが問題だとする意見のほうが、信頼がおけます。
 しかしまた、鳥インフルエンザでの感染死亡の心配をするくらいなら、そもそも通常のインフルエンザでの感染のほうが、よほど心配ではないかと思うのは、私だけでしょうか。鳥を管理し、処分するのはそれはそれで必要なことなのかもしれませんが、それならインフルエンザにかかった人間を野放しにしている――さらにいえば、感染した人が無責任に外を出歩く――ことのほうが、よほど問題ではないかと思われます。
 繰り返しますが、鶏肉や卵については、加熱するかぎり、仮にウィルスが紛れていたとしても不活性かされるために問題はない、という報告があります。例の産経抄の筆者が気骨を示して「感染症も正しく恐れるべきであって、いたずらな過剰反応は禁物だろう。小欄などは鈍感だから、明朝も新鮮なタマゴを生でのむつもりでいる」と書いているのは、無知からくるものでしょうが、無責任な言明であると言わざるをえません。生卵は、インフルエンザに限らず、注意する必要があることは、現代の常識です。昔、農家で採れた卵を生で啜ったという時代とは異なるのです。なあんだ、生でいいのか、と読者に思わせる文です。ほんとうに、このおじさんのコラムは、いつもとんでもないことばかり書いています。この小気味よさが気に入っているという人もいるようなので、戦争賛美やこうした無知について、洗脳が心配です。
 
 最後に、もう一つ。やっぱり嫌なのが、電車の中での携帯電話。通話していなくても、じくじくいじっている姿。だいたい、周りを無視し、周りと完全にシャットアウトした中で自分だけの世界しか考えていないのが不気味であるのですが、さらに自らが強い電磁波を出して他人に害を与えているという視点が欠落していることが、最も悪質だと思います。
 みんな(といっても電車に乗っている全員ではないのですよ)がしているから「安心」してやっているのです。
 彼らに言わせれば、電磁波なんてわずかだから「安全」なんでしょ、誰も(というのは一人も、という意味ではないはずなのですが)そんなこと問題にしていないじゃない、という考えなのでしょう。そう、メーカーは電磁波が危険だなどと言うはずはありませんし、そのメーカーから莫大な税収を得ている国家も、簡単には危険だなどと言うはずはありません。むしろ、なんとか安全というデータが得られないかと工夫をこらし、ある角度から見れば安全と発表できると分かったデータだけを公表するのです。
 日本の電磁波の安全基準が、世界的にも相当甘いということを、ご存知ですか?
 電車の中では、電子レンジ状態ですから、何人かが待ち受けているだけでも、基準を遥かに超えた電磁波が走り続けています。ここには、「安全」もなければ「安心」もないはずです。だのに、どちらもあると考える無責任さ。どうにかなりませんか。


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